今は、「受験学力がものを言う社会」か?

大阪、橋下知事が掲げる教育改革の象徴的な「請負人」・陰山英男氏が、『信頼回復へ まず学力』と題し、橋下改革を語っている。(2009年5月21日 読売新聞)

「今、大阪で学力が問われているのは、全国学力テストの順位が低いから。学力の本質は数値に表れないということは、教師なら誰でも知っている。ただ、数値が低いことが問題である以上、点を上げる対策が必要だ」

兵庫県の公立小学校の教諭時代から実践してきた「百ます計算」や漢字の反復学習を軸に、学力向上のてこ入れを図る。その言動は〈点数主義〉と批判を浴びることもあるが、本人は意に介さない。

「体験学習が大切なのは当然。道徳教育だって必要だ。でも、テストの点数が悪い学校が、そんなことばかり言うと、保護者の信頼を損なう」

建前を嫌う。教育論を振りかざす前に、教師がやるべきことがあると力説する。受験学力がものを言う社会があり、テストの点を気にする保護者がいる現実を直視し、そこへの対処を考える。その姿勢は、「府民感覚」を強調する橋下徹・大阪府知事と重なる。

昨年10月に府教育委員に就任するまで、立命館小学校(京都市北区)の副校長として、橋下知事の教育改革を外から見てきた。

「教育の中身やメソッド(手法)について知事は素人。教育界に風穴を開けたのはいいが、どんな風を送ったらいいか分かっていないように見えた」

就任後、まず変えようとしたのは、府教委と学校の意識。特に問題だと感じたのは、平等性や人権教育と学力対策とを、対立的にとらえる風潮だった。しかし、社会的弱者の自立には学力向上が重要だという自負があった。

「教育学が支配する閉鎖社会で、外に目が向いていない。呪縛さえ解ければ、陰山って俺たちの思っていたことをやっているだけじゃん、ってなるはず」

学校に対し〈ショック療法〉を試みたのは昨年11月。校長研修で「それでもプロか」と集まった約900人を面罵(めんば)した。反発も買ったが「別の手法で見返そうと頑張って、結果を出すならそれでもいい」と涼しい顔を見せる。

過激な言動で状況を動かす手法も、橋下知事と瓜(うり)二つだ。

不登校や高校中退、校内暴力など大阪の学校が抱える課題の多さも承知している。だから「学力向上は、ゴールラインに見えるかもしれないが、むしろスタートライン」と強調する。

「早寝、早起き、朝ごはん」という生活習慣の改善に取り組んだ教師の草分けでもある。テレビや携帯電話、インターネットで氾濫(はんらん)する情報に取り囲まれ、いじめや犯罪に巻き込まれる子どもたちを憂う。

「教育課題の解決には、子どもの危機を一番理解している教師が、保護者や社会に対して声を上げないといけない。今は、その教師が信頼されていない。だからまず、実績を上げ、信頼を取り戻すことから始めなければならない」

身を乗り出して語る姿に、熱血教師の素顔がのぞいた。

《建前を嫌う》
・・・同感だ。

《教育論を振りかざす前に、教師がやるべきことがある》
・・・そう、その通り。

《受験学力がものを言う社会があり、テストの点を気にする保護者がいる》
・・・いることは間違いない。でも、すべてではない。
・・・今の社会は「受験学力」がものを言う? 幻想だろう。

受験、受験って騒いでいる人が、いったいどれだけいるのか。人生のある時期、その関門を通過しなければならないことは事実だ。しかし、それが人生の「すべてを決める」とは、とうてい思えない。

「受験学力」を否定しないが、それは結果であって、目的ではない。「受験学力」は、「学力」のほんの一面に過ぎない。

《社会的弱者の自立には学力向上が重要》
・・・そう、それこそが教師の使命だ。

「学力」向上は全体に必要だ。ただ、この学力は「受験学力」なんて小さなものじゃない。

受験競争を勝ち抜くと言うことは、「希望する学校に”合格”する」ではない。受験を人生の通過点として、「笑って通り抜けられる」ということだ。

受験なんて人生の、ほんの一部。

「受験学力」がそのために必要なものだとしたら、人生で必要な「学力」に比べりゃ、そんなもん、たかがしれてるじゃない。


カラダもココロも強くなれ!!

“The resistance that you fight physically in the gym and the resistance that you fight in life can only build a strong character.”- Arnold Schwarzenegger

そう・・・。あの、シュワちゃん(なんて呼ぶのは失礼やね)の言葉だ。アクション俳優から政治家、実業家に転身。現在は、カリフォルニア州知事として活躍中なのは、誰もが知るところ。

しかし、いいこと言ってるよね~

ジムにおいて身体にかかる抵抗と、人生においてふりかかる抵抗に、立ち向かうことこそが、強い人間を作り出す。まさに、その通りだ。「抵抗」は嫌だし、できればない方がいいし、抵抗勢力なんて言われたら、どう対峙しようか悩んで眠れない。

でも、恐れてはいけない。どんな些細なことであっても、何かことを起こせば、必ず抵抗が出てくる。それが世の常だ。どんなに良いことでも、どんなに素晴らしいものであっても、全く抵抗がないってっことは、まあ100%あり得ない。
よく考えてみてほしい・・・飛行機は、空気抵抗があるから飛べるんだって。

使い古された、たとえ話を引用して恐縮だが、こういうことだ。滑走を始めて、どんどん飛行機のスピードが上ってくる。そうすると、しだいに強い抵抗が機体にかかってくる。それに負けて、スピードを落とせば離陸失敗。抵抗に負けず、さらにもっとスピードを上げると・・・そう、機体が浮き上がる。

抵抗を感じたところで、止まってはいけない。そこが飛翔の始まりであって、さらに突き進むから、大きな飛躍がある。飛行機はみごとにそれを証明している。

振り返って、最近の風潮はどうだろう・・・。少しでも抵抗から逃れることが、さも良いかのごとく、できるだけ楽をして、危ない目に遭わないように、疲れないように、苦労しないように、いじめられないように、痛くならないように・・・

すべて、「~し過ぎないように」のオンパレード!そんなに「過ぎる」ことが、いけないことなの?

マラソンのトレーニングは、限界を超えたところにその真髄がある。しんどいからと言ってそこで止めて、どうして身体が鍛えられよう。苦しい、もう我慢できない・・・。あと100メートル、もう100メートル・・・。ダメだ、足が折れそう・・・

一流選手は、限界を超えても止めない。限界を超えたちょっと先まで、我が身を鍛え上げる。

そこで初めてカラダが気づく・・・「ツヨクナラナクッチャ」

ココロだって同じだ。


テスト、終わって「ポイ」はダメよ

中間考査が終わり、テスト返しが始まった中学・各教科の授業。さてさて、気になるのは結果(=点数)だけかい?

今朝1時間目にあった、今月の「中学生のつどい」でも話したことだが、テストは復習、つまり・・・終わってから見直すから意味があるのだ。

2008年の10月6日(おっと、僕の誕生日じゃないか)、日本経済新聞の教育欄に掲載されていた、驚くべき「復習の効果」。テスト後に問題の解き直しなど復習をしている層は、しない層に比べ、算数・数学で平均23%、国語で19%も正答率が高い。(全国学力テスト、小6、中3の結果より)

まさに、復習の大切さを示す証拠みたいな数値が出ている。

一般に、模擬テストなどが終わったとき、「成績のよいヤツほど見直しをするんだ。ちゃんとやっとけよ!!」なんて、やりっ放しで終わらぬよう、毎度毎度、繰り返しだとわかっていながら、自己反省も含めてハッパをかけるが、これはいかなるテストでも同じこと。

日常の授業で行われる「小テスト」や「確認テスト」。各単元が終わったときに行われる「単元テスト」。「中間テスト」や「期末テスト」などの定期考査、などなど・・・いずれも《見直し》が、次のテストにつながることは間違いないのだ。

僕自身、「テストのために勉強するヤツは嫌いだ」とよく言っているが、見直しをしないこと=テストのための勉強にしかなっていない、つまり、「テストの見直し(復習)をしないヤツが嫌いだ」という意味で言っているのだ。

検定や入試など、合否を決めるテストは「点数を取る」ことが目的だ。点数が取れなければ、テストを受ける意味がない。だって、テストで合格して、成果を勝ち取ることがすべてだから。

でも、それ以外のテストは違う。来るべき合否を決めるテストに向かって、成果を確かめるテストなのだ。どこの勉強が不十分なのか、どの部分の理解が乏しいのか・・・それを知るためのチェックシートに過ぎない。チェックしてわかったことを、その後に活かさずして、何になる。

点数は単なる指標、「あなたの理解度は△△%です!!」っていう程度の数字だと思って気にしないこと。大切なのは「どこを、どう間違ったのか」「どこがわからなかったのか」、それをキチンと分析し、次に同じ間違いをしないよう《見直し》をすることだ。


朝から晩まで、地元づきあい

今日は、恒例の「総出」(町内から各戸1人が出て行う作業)の日。年に何回かあって、6月は草刈りと川の藻取り。

朝8時に作業がスタート。まずは、町内から湖周道路につながる大川土手の草刈りだ。急な傾斜に足下を気にしながら、草刈り機で一気に刈っていく。風が涼しく、さほど汗もかかずに快調な滑り出し。

土手の草刈りが終わると、続いて湖岸緑地公園へと移動し、遊びに来ている家族連れには、ちょっと我慢してもらって、草刈り機のエンジン音を響かせながら、公園周りの草刈り。

ここでひと休みして、今度は大川に生えた藻を、両側の土手から、棒の先につけた鍬で取る作業になるんだけど、今日は親戚の法事があるってことで、パスさせてもらい、家へ戻る。

急いでシャワーを浴びて、支度をし、町内の親戚へ。10時から12時半まで読経があり、その後、迎えのバスで料理屋へ。草刈りの「動」と読経の「静」、その両極端の”疲れ”を解消すべく、Beerのペースが上がる・・・?!

久しぶりに顔を合わせた親戚の人たち。お互いの近況報告に、職場は違っても同じような悩みっていうか、苦労を抱えているんだなぁ~と思いながら、話が尽きない。

行くまでは、ちょっと面倒な気分になる親戚づきあいだけど、いったん顔を合わせ、話し始めると、ついつい時間を忘れてしまう。

昔と違って、日曜日だからといって、みんな暇だというわけではない。親戚やご近所づきあいも、時に「煩わしい」と思うことだってある。でも、だからといって個人の自由を押し通せば、お互いに足が遠のき、だんだんと疎遠になっていくだけ・・・。

今の時代だから大切にしたい「お付き合い」だと、改めて感じた一日。おいしい料理とお酒にも、大満足!!


土曜講座

中間考査が終わって、ちょっとゆっくりしたいところだけど、今日も、いつもの時間に学校へ。

土曜講座と父母教の事務処理などなど・・・

来週からは、開放講座のひとつ「おもしろ理科実験講座」を、土曜日の午前中、4回シリーズで行うことになっている。”おいしい理科実験”と銘打って、ふだん身近に食べているものを、ちょっと変わった方法で作ってみようと思っている。

参加してくれる小学生の皆さん、楽しみにしていてねっ!!


中間考査(2日目)

中学の中間考査2日目。全学年、「英語」と「数学」の2教科の試験があった。

英語に力を入れている本校だけあって、英語の試験にリスニングは必須。子どもたちの力の入れようも、他の教科とはどこか違う感じがする。で、それが結果的に英語好き→各種検定で高スコア獲得といった流れをつくり、大きな成果を上げているわけだ。

夕方からは明日の開放講座の準備と父母教の会議が2つ。

研修部と私学助成部の合同部会の方は、月曜日に配布する封筒詰めの作業が中心で、21時前に終わったが、研修部の方が話が尽きず22時をまわり、結局今日も帰りが遅くなってしまった。

今、22時20分。今日一日の仕事の整理をして、これを書いている。

でも、こうやって保護者が学校に集まって下さって、積極的に関わろうとして下さるのは、ほんとうに嬉しいことだ。また、このblogはじめ、各クラスのblogにいろいろなコメントを下さるのも、ほんとうにありがたいと思っている。

学校だけで、教職員だけで子どもたちを育てているわけではない。保護者の方々の応援というか、両者と地域がともに手を携えて子どもたちをその輪の中心に置き、あたたかく見守りながら、必要な時に、必要な手を差し伸べてこそ、本来の子育てができるんだと思う。


中間考査(1日目)

中学は今日から2日間、中間考査が行われる。高校は秋季高総体。

初日は3学年とも、国語、社会、理科の3教科。どの学年も試験勉強に、けっこう気合いが入っていたようで、結果が楽しみだ。

先生たちは・・・といえば、子どもたちが書いた「お元気ですか」メッセージカードを手に、試験後の時間を利用して、在校生の出身小学校へ近況報告に出かけた。

各小学校では、特に1年生を送って下さっているところでは、中学校に行ってどんなふうに過ごしているか、勉強はどうやろう、友だち関係は・・・など、入学後の様子を尋ねて下さったり、こちらからも、学校で頑張っている姿や今後の行事予定など、いろいろ話をしたりして、なかなかいい情報交換ができた。

小学校へは、今後もこんなふうに定期的にお邪魔して、いろいろお話しができたらいいなぁ~と思っている。

さて、今ごろ子どもたちは明日の試験に備えて勉強中だろうか?

学校から「頑張れ光線」をいっぱい送っておくね。ファイトー!!


すばらしきリーダーたち

昨日、高3K先生とN先生のブログに綴られていたことが、今日になって次々と見えきて、心配したり、感心したり・・・。生徒会のメンバーや各クラスの団長たちの対応も含めて、放課後になって、その全貌を聞くことができ、胸が熱くなった。

体育祭に向けて、高3学年の先生たちはもちろん、生徒会執行部や各団長がどれほど熱い思いを持っているか。今日一日の怒濤の話し合いの中で、それが何度となく確認でき、そのたびに結束が高まり、強く、やさしくなっていった子どもたち。

「あっ、そういうことだったのか・・・」

直接、それに関わる立場ではないので、目まぐるしく動くドラマの輪には入れなかったが、あとで聞いただけでも身震いするような展開だった。

今年は、中高合同体育祭のスタートとなる、記念すべき年だ。これまで以上に期待され、その成果を問われることは、子どもたち自身が一番よくわかっていると思う。

そんな中で迎えた、6時間目の結団式。中高あわせて全校生徒を引っ張るリーダーとして、「これなら安心して任せられる・・・」そんな確信が持てるような、団長・副団長たちの姿がそこにあった。

生徒会を中心に、みごとな体育祭を創り上げてくれ!!期待を込めて、精一杯の応援をするぜ。


時間がないといいながら・・・

input より output が先だと言っておきながら、このところ、本を読みたくて仕方がない。もはや乱読に近い。

小説ではなく、ジャンル的には「ビジネス書」の類。毎週のように、Amazonのお世話になって2~3冊をゲット。寝る前、朝起きてから、学校の朝読書の時間・・・などちょっとした時間を見つけては、ページをめくっている。マッサージをすれば肩凝りがほぐれるように、凝り固まった思考や、行き先の見えない目標がクリアになり不思議と脳ミソの疲れがとれていく。

いま読んでるのは『IF思考』(松本道弘:著、光文社ペーパーバックス)。気の利いたコメントができれば、書評も可能だろうけど・・・まずは現場での output に使いたい。


inputとoutput

たくさん息を吸い込もうとすれば、どうすればいいか・・・答えは、できるだけたくさん息を吐き出すこと。

「腹式呼吸」で大切なことは、いかに息を吸うかではなく、いかに息を吐くかということだ。吐くことができれば、勝手に吸うことができる。

英語がしゃべれるようになりたいと思って、いろんな参考書を買い、毎日、嫌になりながら一生懸命フレーズを暗記したところで、実際に声を発して、使わなければ身につかないし、上達しない。

勉強したから話せるようになるんじゃなくて、しゃべる機会があるから、どういう言い回しが適切なのか知りたくなり、覚えようとするのだ。

英語に限らず、どんな勉強だって同じ。誰かに伝えたいから、表現したいから学ぶのだ。

お腹が空くから、美味しくご飯が食べられる。ギュッと絞ったスポンジだから、たくさん水を吸い込んでくれる。カラカラに乾いた土だから、どんどん水がしみこんでいく。

資料をたくさん集めても、レポートは書けない。集めれば集めるほど、どれを使って、どうまとめればいいか悩む。反対に、書きたいことが決まっていれば、話は早い。
必要な資料を探せば、それでいい。

日本人は、inputが好きらしい・・・

自分の周りに、できるだけ多くのモノや情報、ヒトを集めたくなる。でも、集めれば集めるほど収拾がつかなくなり、コントロール不能。結局は使いこなせずに、放置されるだけ。

そうじゃないだろう・・・発想を180度変えてみたらどうだ。

すべてを、outputから始める。そうすると、自ずと必要なヒトやモノ、情報が見えてくる。それも無駄なく、クリアに。

ほんとうは、きわめてシンプルなのだ。

必要だから、取りこむ・・・

必要でないモノは、近づけない・・・

ただ、それだけ。