徹底が足りなければ空論に過ぎない

全国2758高校の172大学合格者数が特集されていた「サンデー毎日」4月18日増大号の記事、「大学受験サクラ前線異常あり」の中にあった都立日比谷高校の話。

38年ぶりに東大合格者30人超・大躍進を支えた前校長というタイトルで、豪腕校長としてその名を知られる長澤直臣氏のことが紹介されているが、まさにその通り!と思わず頷いた言葉がある。

「改革はどの学校でもできるが、徹底が足りなければ空論に過ぎません。日比谷改革の要諦は、人事を含め、きめ細かく徹底したことにあります。日比谷はもう大丈夫ですね」

これこそ、本校がめざしている学校改革そのものではないのか・・・

記事は続く。

「血の入れ替え」ともいうべき教員公募制、シラバス(年間授業計画案)の作成、生徒の授業評価制度、夏休みの100講座開設・・・長澤氏が断行した「改革」を挙げればキリがない。「4年で実績が上がらなければクビかな」と内心は腹を固めつつ、就任4年目で16年ぶりの2ケタ14人の東大合格者を出し、6年目には28人を「量産」。

「受験に強い生徒を作るだけではなく、人間教育にも熱心だと聞きます。自由闊達な日比谷の伝統がよみがえったのなら、大変うれしいですね」などと、OBからもすこぶる好評だという。

この記事に限らず、学校や企業で改革を成功させた例の多くには共通しているキーワードがある。それは「徹底」だ。めざすゴールに向かって、あらゆる場面で、とにかく徹底して形やシステムを変えていく。人事や金銭面など、大きな障害になるであろうことにも、不退転の決意で「断行」することができて、初めて改革が日の目を見るのだ。

その場の感情に流されてはダメだ。表面的な温情は、返って傷を大きくするだけだ。何が大切か。誰のために、どこをどう変えようとしているのか。その一点に絞って判断できなければ、決心が揺らぐ。

痛みを伴わない「改革」なんてない。日常を覆すくらいの変化があって、初めて「改革」と言えるんじゃないのか。

現場の「事なかれ主義」に気を取られてはいけない。「まあいいか、何とかなるさ」という逃げは、改革にはおよそ似つかわしくない。切れ味の良い、鋭いナイフを突きつけられるがごとく、大胆かつ合理的に、見える形として成果を上げていくために、全員に「結果責任」を迫ってこそ「改革」の第一歩が記されるのだ。


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