総括すると言うこと

一年を締めくくる時期、いわゆる「総括」をした上で次年度に向けての「方針」をたてるのが普通だ。にもかかわらず、学校全体としてそれがきちんとできているのかどうか、少なくとも僕の見る限りでは、かなり怪しいと言わざるを得ない。

個人的にはやっているんだと思う。クラス経営の反省であったり、授業の振り返りであったり。毎年4月に新学期を迎え、基本的にはリセットできる性格の仕事なので、自分では非常にやりやすい。というか、やらざるを得ない仕事であると誰もが思っている。

しかし、これが組織全体で・・・となると、とたんにいい加減になる。鍋ぶた組織の弊害かもしれないが、管理職を除きフラットな立場であるが故に、相互監視体制が取りにくい。誰もが一国一城の主であり、周囲にはあまり頓着せず、よく言えば自己責任、悪く言えば自分勝手で、とにかく自己主張が強い。

だから、いくら組織で総括に取り組んだとて、きわめて抽象的な議論にしかならず、誰の言葉でもないような、借り物の美辞麗句が並ぶだけで、何の説得力もない。総括をした「気分」になって満足しているだけだ。

「総括」と言えば、強烈に思い出す光景がある。大学時代、茶道部に所属していた僕は、2年で学生茶道連盟の理事職に就いた。一泊二日で行われる理事会は夜を徹して進行するのが通例で、最初、その理由がよくわからなかった。しかし、疑問はすぐに晴れた。理事会の後に出される文書での総括について、その言葉の一つ一つについて、それこそ「てにをは」にまで拘るような丁寧な議論がされていたのだった。

各行事にはそれぞれ目的があり、それがどこまで達成されたのか。その総括が疎かになっていては、次への行事につながらない。そのために夜を徹して真剣に議論し、総括文に「魂」を吹き込んでいく。たかが言葉の一つくらい違ったところで大きな影響はないやろう・・・。最初そう思っていた僕だったが、言葉が大切なのは、その奥底に「気持ち」が込められているからだとわかり、表面上の字面を追っているだけではない議論の奥深さを知った。一人一人の思いを込めようとせんがために、結果として言葉の議論をしているように映ったのだ。

そんな経過を辿りできあがった「総括」は「活きて」いた。議論に参加したメンバー全員の思いが込められ、誰もが連盟という組織の中で「全員の合意」が作った「自分の意志」が反映されたものとして、より高いステップへと次の「方針」を押し上げていく原動力となるものだった。

3年で連盟の事務局を預かった時には、その経験に大いに助けられ、各行事や仲間の輪が予想を超えて充実し、組織そのものが強固になっていった。

本来の「総括」とはこういうものだろう。いろいろな大学から、代表として集まったメンバーでこれができるのだから、一つ屋根の下、同じ学校の教職員ができないはずがない。何も徹夜をしてやれとは言わないが、大切な子どもを預かる立場として、お互いがもう少し心に踏み込んで議論ができないものだろうか。

どこか他人事、自分は自分と一線を画し、相手を尊重していると言えば聞こえはいいが、その実「無関心」なだけで、大事なのは自分、自分に心に踏み込んでくるな・・・といった気持ちで仕事をしているようでは、決して一つになれない。

いま必要なのは、滋賀学園の教職員が一致団結して、前向きに学校を切り拓いていくことだ。それなくして、明るい未来などあり得ない。


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