人が育つ環境を見抜いてこそリーダーといえる

職場の異動で、あるいは上司から指名されて、みんなの投票で選ばれて・・・。さまざまな組織の中で、自分の意志とは無関係に今まで経験してこなかった仕事や任務に就いてしまうことがある。

そんな時、最初はよくわからず、見よう見まねでやっていた人が、しだいにその存在感を増し、次々と成功を収めて実力をつけ、気がつけば大きく成長していた。

そんなことって、ないだろうか?

そして、この場合、自分から希望してその仕事(任務)に就いた人より実績を上げていることも多い。まさに「ふさわしい人物」としてその立場に置かれたことを物語っている。

校務の中で、主任という立場になると、ある程度自分で決定権を持ち、先生方を配置できる部分がある。ふつう、一般的には「この先生はこういう力があるから、この仕事が向いているだろう」と人の配置を考える。当然、周りにいる人たちもそれくらいの共通認識は持っていて、「それでいいよ」と賛同する。

時に、見立てが違うことがあっても、多くの場合、その人をよく知らないが故に、誰かから聞いたイメージや、表面上の雰囲気だけでそう思っているだけで、しばらく話し合いをすれば基本的に合意し、役割分担が決まっていく。

でも、これではあまり成長は見込めない。集団としての安定感はあっても、伸びていく可能性というか、ひとり一人が成長していくために「鍛えられる」部分が少ないからだ。

何が足りないのか・・・。

それはリーダの野心と、人を見抜く目だ。

人を配置したり、使ったりする時は、「この人にはこういう力があるから」という現在の姿だけを見てはいけない。「この人にはこういう良さがあるから、そこを伸ばして、こういう働きをしてほしい」「今は見えていないけど、この部分が表に出れば、こういう力を発揮するはずだ」といった、まだ見えない”秘めたる力”に思いを馳せ、期待値を込めて人を見定めなければいめない。

上に立つものの大事な役割は、人の育ちを見抜き、育つ環境を用意することだ。どこに置いて、どのような役割を担わせ、どの時期に、どういったサポートをしていくかを含めて、アレンジしていく力量が必要になってくる。

振り返って、自分はどうか・・・。

現実には、立場だけでは推し量れない制約、つまり力を及ぼせる範囲に限界があり、一概にそれが完璧にできているとは言えないが(たぶん、周りから見てもそう映っているだろう)、彼と彼女と・・・確実に自信を持って「育つ場」を提供できた先生たちが何人かいる。もちろん、現在もまた別の先生に対し、そういうアプローチをしている最中だ。

「俺って、私って、けっこうやれるかも・・・」

そんな自信が自分の内面からわき起こり、自然と身体が動いてしまう、あなた!

僕の目に狂いがなかったら、あなたがそれにふさわしい「成長株」だ。


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