評論家ではなく、可能性に賭ける実践家に・・・

学校というところは、「教育」という、どちらかと言えばすぐに「結果」が出ないことをやっている安心感があるのか、どうも成果を問いにくい場になっている。

営業成績がグラフで描かれたり、売り上げが数字で示されたりといった、企業的な「目標達成度」をはかる指標はほとんどなく、自己管理も含めて、その評価は各教師の自主性に任されている。

反面、同じ教育機関でも「塾」となると、ちょっと様子が違ってくる。「いい教育」をしないことには経営が成り立たないから、先生たちの危機意識が強く、結果を出せないような、ある意味「質の悪い」先生は自然と淘汰され、自ずと先生のレベルが上がっていく。

名の通った塾など、教員採用試験よりはるかに難しい試験を突破しないと、教師として採用されない。

ある面、私立学校は塾と同様、教育の質が入学生の数や質を決めるわけで、この時代、危機意識がないとやっていけない。

もちろん、学力だけが先生の質を決める要素ではないし、塾の先生がよくて学校の先生がダメだと言っているわけではない。一般的な比較論として、塾の先生の方が危機意識が強いと言っているだけだ。

ただ、その危機意識の強弱によって決定的に違うことがある。それは、ものの見方が「評論家」で終わるか、あるいは「実践家」までいくかということだ。

ある程度、先生としての経験を積めば、学力指導や生活指導、校務運営等でどこがおかしいか、何に問題があるかがわかってくる。そして、「ここが変だ」、「ここを改善しなきゃ」、「こんなことをしていて、よくなるはずがない」・・・等々、そのおかしさを一生懸命”評論”する。

しかし、その改善策を探したり、自分で解決すべく手をさしのべるかといえば、多くの場合、誰かがそれをやってくれるのを待っているのだ。なかには、そうやって解決しようと動き出す人に向かって「そんなことやっても、結果は同じ」、「やっても無理だって」と、足を引っ張るだけの先生もいる。

何をか言わんやである。

よくないところ、改善すべき点が見えたら、すぐさま対応するのが当然だろう。できない理由を探し、そのたびにマイナス発言をすることがいったい何になるというのか。そんな暇があったら、ダメ元で思ったことをやってみる方が何倍もの価値がある。

教育現場に「評論家」はいらない。必要なのは、果敢に可能性と向き合う「実践家」だ。


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