仏典に『雑宝蔵経(巻七)』というのがある。その中に出てくる言葉で、僕がすごく気に入っている・・・というより、自分自身への問いかけとして、いつもそうでありたいと念じているものがある。
その言葉とは「無財の七施」。どういうことかというと、“無財”すなわち、人間、お金なんかなくてもいい、何がなくても、人として生まれてきた以上、自分以外の第三者に対して、少なくとも“七つの施し”をすべし、という教えである。
その、“七つの施し”とは何か・・・。
第一は「眼施(がんせ)」である。
目は口ほどにものを言う、眼は心の窓・心の鏡だ、などと言われるように、眼を見れば、その人の精神状態、心理状態、健康状態までがわかってしまう。だから、いつも澄んだ眼、明るい眼、清らかな眼、できればキラキラ光り輝く眼をしていなければならない。
二番目に「顔施(げんせ)」。
顔の施しである。顔の施しとは何か。つまり、老若男女を問わず“微笑む”ことが大切だというのである。中国の古辞書には“微”は“美”なりと記されているらしい。また、“美”は“味”なりともある。これら“微”“美”“味”は、字は違うけれども、元来は同じ意味で用いられていたとのこと。美しいものには味がなくてはならず、その味も微妙でなければならない。すなわち、自分の顔が、いつも微妙な、味のある美しさを持っていることが大切であるということだろう。
三番目に「身施(しんせ)」。
身だしなみということである。身だしなみというのは、何も華美な服装をすることではない。清潔感あふれる、こざっぱりしたという一語に尽きるだろう。
四番目が「言施(ごんせ)」。
言葉遣いに神経を使うということである。日本語というのは、とても語彙(言葉数=ボキャブラリー)が豊富である。それぞれ微妙にニュアンスが違う言葉が飛び交っている。そんな中で、いったいどうすればいいのだろうか。言うまでもなく、それらを“駆使”する語法を身につけることである。一言多くてもダメだし、少なくても不十分。この言葉の施しは、意外に簡単なようで難しい。しかし、その反面、知らず知らずのうちに大きな効果を生んでいることが多いのも事実だ。
次に、五番目が「心施(しんせ)」。
真心である。どんなに美しい眼、顔つき、身なり、言葉遣いをしていても、真心がこもっていなければ何もならない。真心がこもっていなければ、むしろ、空々しい印象を与えるだけである。
そして、六番目に「床座施(しょうざせ)」。
いつも休んでいるところ、いつも座っているところを整理整頓し、かつ清潔にして、いつ誰がそこへ現れようとも、いつでも気持ちよく迎え入れることができるようにしていかなければならないということである。
最後に、七番目「房舎施(ぼうしゃせ)」。
“房”は部屋、“舎”は家である。これも、いつ、いかなるときに人の訪問を受けても、恥ずかしくないようにしておく施しのことを言っているのである。
さて、少し難しい話になったが、人と接するときの、ありとあらゆる場面において、この七つの施しをすべて満たせるような自分自身であったとしたら、どうだろう。仮に、自分がそういう人に出会ったときを考えればわかると思うが、気持ちよくその人を心に迎え入れることができるはずだし、信用も、感謝の気持ちも、また会いたいという期待も・・・・、その他、何をおいても、まずその人の魅力、すばらしさにとりつかれると思う。
我々人間は、人との交わりを除いて生きていくことはできない。言い換えれば、人さまの“おかげ”で“生きさせてもらって”いるとも言えるだろう。そんな中で、もし、この七つの施しが実現できるような自分であったなら、どれほどあたたかで、豊かな毎日が送れるか・・・。
少しでもそれに近づけるよう、日々精進したい。
《おまけ》 “お布施”という言葉は、この「無財の七施」をしっかり行うと、仏さまからもらえるごほうびのことをいうらしい・・・。