今さら言いたくないが・・・誰のための学校か?

学校は、そこに通う生徒のためにあるもので、教職員の職場としてあるものではない。守るべきものは生徒の成長であって、教職員の待遇ではない。最優先で配慮されるべき対象は生徒であって、教職員ではない。

そんな当たり前のことが、どうして常に意識され、実践できないのか・・・。いろいろな話を聞くにつけ、何がそうさせているのか理解に苦しむことがあまりにも多すぎる。学校としての体制、いやどう考えても社会の常識レベルのこと、あるいは教育現場として当然果たすべき役割や責任が、ここまで認識されていないことに唖然とするばかりだ。

声の大きい人、無理を聞いてくれない人、怒らせると扱いづらい人・・・。そういった面倒な人にはとことん意見せず、ある程度言えばわかってくれて、無理を押してでもやってくれる人にばかりシワ寄せを強いるのは、どう考えてもおかしい話だ。

でも、現実にはそういうことがまかり通ってきている。よかれと思って意見する人は疎まれ、排除され、ご機嫌伺いがうまいがごとく立ち回る、御用聞き人を周りにおいて、体よく使う。これって、正常なことだろうか?

それは、どう見ても自らの保身や責任逃れを考えた、事なかれ主義に他ならない。現場には「おまえたちが頑張らねば達成できない」と相当なプレッシャーを与えているにもかかわらず、自らの職務にはきわめて寛容で、職責が全うできようが一切、与り知らない話で、すべての責任を現場に求めている。そんな環境で働く元気など出ようはずがない。

管理職は現場の士気を上げてナンボだ。責任者として現場の教職員を守って然るべきだろう。それを自分たちが一番に「責任逃れ」をするような対応の仕方で、現場一人一人が有機的に動くはずがない。

もっともっと現場を見、深く知り、いいところは伸ばせ、よくないところはここを改善しろと、管理職としての指揮権を発動してもらわないことには、いたずらに現場を混乱させるだけで、疲労感の蓄積にしかならない。

管理職というのは、そのためにある立場、職責ではないのか。当たり前の社会通念がここまで通用しない組織となると、小手先で何をやっても何ら根本は変わらず、旧泰然とした流れの中、終いに沈没していくだけだと思う。

このままでは「改革」プロジェクトが、「崩壊」プロジェクトになってしまうと、ものの見事にたとえた先生がいる。それこそ、これまでの幾多の改革で学んできたことだろう。

今一度、誰のための学校か、何のために改革をするのか・・・きちんと問うていただきたいと強く願う。


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