特色のある教育と資金力

大学入試があちこちの大学、短期大学で行われている。受験生も、迎える側の大学関係者も大変だ。

さて、少子化の影響と見通しのない教育行政によって、私立大学は学生募集に苦しみ、経営の危機にさらされているところも少なくない。全国には、約1200の国公私立大学・短期大学がある。18歳人口が減少に転じた1992年度以降、若者人口はどんどん減っている。

にもかかわらず大学の定員は年々増え続け、1992年から2006年までの間に新設された大学は約70校。短大からの四年制移行もあわせると184校も増加している。

こうなることを、行政が知らなかった(予想し得なかった)はずがない。なのにどうして、こういうおバカなことが行われていくのか。

そもそも行政の「許認可」システムは、申請(突き詰めて言うなら申請書類)に不備がなければ認可しないといけないわけで、申請者は認可してもらうために必死に頼み込み、それを受けた行政側は許認可条件に合わせるべく帳尻合わせのアドバイスをし、実態はともかく、いかに完ぺきな「申請書」を出させるかに腐心する。

ここに、崇高な理想とか社会的役割などはもはや存在せず、残るのは単なる責任逃れの構図だけ。日本の高等教育を見通した施策など、どこにも存在しないのだ。

根本にあるのは、「あなたが大学をつくりたいと言ったんでしょ」という意識。最終責任はすべて申請者にふりかかってくる。

行政側は、「こちらは実現してもらうためにいろいろとアドバイスしただけ。多少の無理をお願いしたかもしれませんが、それなりに配慮しました。」で、最後は「ご苦労の甲斐あって、申請書類に不備はありませんでした。設置を認可しますので、申請時の計画通りの教育が達成されるよう、くれぐれもよろしくお願いします」となる。

もちろん、一方的に行政(監督官庁)側を攻めるのも酷な話で、大学をつくりたい側の思惑もあり、どっちもどっち、すべては「自分たちの都合」が最優先である。教育は国家の根幹をなす大事なものだ。諸外国との「競争」も含めて、「個人の都合」ではなく「国家戦略的」に進めていくことができないものかと情けなくなる。

ちょっと話が大きくなった、元に戻そう・・・

いわゆる経営危機、すなわち生徒募集に苦労している大学のほとんどは規模の小さなところで、学生数が1万人を超える大学はそれほどでもない。むしろその資金力をバックに「時代受け」しそうな「新設学部・学科」を次々とつくり、学生の興味関心を惹こうとしている。

要するに、お金があれば施設設備も作れるし、有能な教授陣も招聘可能。立派なパンフレットやグッズを用意し、大々的にコマーシャルできるのだ。資金的に厳しい大学はその陰に隠れて、ますます目立たなくなり、遅れをとっているかのような印象さえ受けかねない。

次々と時代を先取りしているかのような、立派に見える、いい教育をするために一番必要なのは「財力」だということは、もはや疑う余地がない。

その資金はどこから来るのか。受験料であり、学生の納付金であり、国や地方自治体からの補助金であり、企業からの委託研究費などであって、それとて、ある程度の学生がいて、名のある教授陣が、いい教育をする方がよりたくさん集まるに決まっている。

タマゴが先か、ニワトリが先か・・・

「しっかりとした、いい教育をすれば学生が集まる」。もちろんそれは間違いではないが、浪花節のごとくそれだけを声高に叫んでいたところで、世の流れを視野に入れた戦略がないことには、単なる「自己満足」、「負け犬の遠吠え」に終わってしまう。

もちろん、これは大学だけの話ではない。各種専修学校はもっと顕著にそれが表れるし、私立高校や私立中学とて規模は違うが、全く同じ状況だ。

ただ、そんな中でも、規模や宣伝力に関係なく実績を上げている大学や中高はいくつもある。いったい何が違うのか・・・

まず、何よりもそこで教育活動にあたるもの全員の、「真理を見極め、揺るない信念と正義で、地球規模で社会に貢献しうる人材育成にあたろうとする意識」が必要なことはいうまでもない。

それは、トップの強烈な個性と牽引力でつくられる「価値観」だ。リーダーたるカリスマ性が共感を呼ぶのだ。


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