西堀榮三郎の探検人生に学ぼう

中学で毎月一回開催している、保護者会。6月は父母と教師の会と共催で「親子教育講演会」を同時に行った。

講師にお願いしたのは、ドイツ在住の理学博士・西堀峯夫さん。先日、探検の殿堂で打ち合わせをしたこともあって、お互い友人感覚。

西堀峯夫さんは、第一次南極越冬隊長として日本初の越冬を成し遂げた西堀榮三郎氏の三男で、世界初で唯一の「宇宙空間の真空度測定用管球」の開発・製造・納入を一人で手掛け、NASAのスペース・ラボで使用された実績を持っている。

1985年、真空技術コンサルタント会社 MN Vacuum Technology GmbHを個人でドイツに設立。父・西堀榮三郎氏の探検人生を実践し続けている人だ。

とにかく元気の出る、いい話だった。峯夫さん、ありがとう!

大切なのは夢を持ち続けること!(滋賀報知新聞:6月27日記事)

《西堀榮三郎さんは、こんな人》

皆さんは、西堀榮三郎という人を知っていますか?

知らないかも・・・っていう人でも、「雪よ岩よ我らが宿り~♪」で始まる『雪山賛歌』は、口ずさんだことがあるでしょう。この歌を作詞したのは、西堀榮三郎氏とその山仲間たちです。

科学者であり、ヒマラヤなどに足跡を残した探検家で、1957年の日本初の南極越冬隊長として知られた西堀榮三郎氏の人生は、南極ばかりでなく、科学、特に戦時中の首空管開発、品質管理や新商品開発など多岐にわたっています。

京都の老舗に生まれ、丁稚さんや番頭さんに囲まれて少年時代を過ごし、「異なった個性のある人々がともに働く時、それぞれ役目があり、お互いに認め合い協力していくことで立派な仕事ができる」ことを、身をもって体験。

また、何にでも興味を持ち、五感を駆使して、手で触り、足で現場に行って「どうしてだろう」「なぜ、こうなっているのだろう」と、探究心を常に持つことの大切さを、いろいろな体験から学びます。

1922年に来日したアインシュタイン博士夫妻を京都・奈良に案内し、「何事にも初めがあり、まずやってみる勇気を持つこと」など、科学者として必要な心得を教えられ、目からウロコが落ちたと回想しています。

常に『初・・・』を目指しているゆえんは、ここにあります。

6歳のとき初めて愛宕山に登り、登山に目覚め、中学の頃から今西錦司氏や桑原武夫氏など日本の学術界を築いた人々と本格的に登山を始めます。京大学士山岳会を結成し、日本アルプスをはじめ白頭山や樺太など、数多くの初登頂・初遠征を成し遂げます。

11歳の時、京都南座で白瀬中尉の南極探検帰国報告会を見た時からの夢を、自身で43年後に実現させること自体、とてもすごいことですが、若い頃の登山は南極やヒマラヤを視野に入れた、経験を積むためのものでした。

人生には数多くの分れ道があり、迷うことなく夢に向かって正しい道を選ぶことで、夢は必ず叶うと教えています。

京大助教授になるものの、大学を去り東芝に入社。有名な真空管『ソラ』を開発、大量生産できるようにして、現場重視の功績を数多く成し遂げました。この開発の経験から、南極で予備品がなく、寿命がきた通信用の真空管を再生して繰り返し使い、何とか越冬を切り抜けたというエピソードもあります。

『人間は創造性を本能として持っており、これをいかにして発揮させるかである』と、創意エ夫を欠かさずに実行することを強く訴えています。学校などで身につけた知識を、多くの経験や体験を積み「生きた知識」にすることで、問題が起こった時に「知恵」がわき、問題を解決することができると説いています。

西堀榮三郎氏の人生は、常に未知の世界への飽くなき探求心であり、その足跡から数多くの『西堀語録』を後世に残しています。「石橋を叩けば渡れない」、「出る杭はのばせ」、「体験による生きた知識」など、今の私たちの“力強い指針”となるものばかりです。


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