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演者と観客はたがいに創り合う

【YouTube 紳助、ヘキサゴンコンサートからタレントと観客の関係を語る】

↑の動画では、タレントの島田紳助さんが、「お客さんの態度でタレントのテンションがどれだけ変わるか」というトークをされてます。

今年の文化祭は演じる方のレベルがすごく高かった反面、観る側のマナーが問題になっていましたが、それと通じるものがあるのではと思いました。

「お客さん、ドンドーン笑ろたら、俺天才や思うもん。天才やと思うとそん時ぐわーっと一気にしゃべりが上達すんねん。」

「全然笑わんお客さんの前でしゃべっとったら絶対アカンもん。しらーっとされたらどんどん声小さなるし、語尾が弱なる。もうオチ言わんといたろかな思うもん。」

ただお笑いと文化祭が本質的に違うのは前者は娯楽であって後者は教育であるということ。お金を払って見に行く分には、おもしろくなければ笑ったり拍手をしたりする必要はないでしょう。「個人の自由」です。ただ教育の場では、成長をするという目的があり、そのためにお互いが認め合い高め合うことが求められている場では、個人の自由は「ない」と思うのです。

観客の姿勢が仰ぎ見るものであれば、演者は仰ぎ見られたレベルでいつもの自分から一段高いところに立った自分をつくりだして演じることができること。そしてその仰ぎ見るという行為が自分の中に憧れをつくりだし、それによって観客自身も育てられるということを教えなければならないと思うのです。動画を観ながら、ぜひとも観客としてのマナーを生徒に教える機会を持たなくてはいけないという認識を強くしました。

いや、「教える機会を持つ」というのはおかしいかもしれない。現に文化祭のときには指導はされているはず。機会はあるのです。こういうものは普段の積み重ねが大きいかもしれません。

話が横道にそれるかもしれませんが、

「おもんない」「えらい(=しんどい)」

行事のたびにこんな言葉を耳にします。そりゃ楽しくおもしろい方がいいとは思いますが、こんな言葉を聞くたびに「それでいいのか、おい。」とも思うんです。

「自分の気に入ったものしか認めない。」「気に入ったもの以外はやらない」

そんな風潮があります。演目が気に入らなければ無理にやらないし聞く態度もとらないという理屈です。

こんなことを許してはいけないんじゃないでしょうか?

授業に対してでさえ、(そう授業に対してでさえ!)そんな空気があります。そりゃこちらの教え方の未熟さはあるにしても、おかしいんじゃないの?と疑問に感じます。(まぁ行事も授業の一貫なのですが、、、「祭」と付けば「楽しむためのもの」と勘違いするのも理解できるので。)

あまり言うと教師の怠慢と言われるのでしょうが、どうしてこうも食わず嫌いやわがままが通るのか。批判ではなく、本当に疑問なのです。怒りではなく成長する機会を捨ててしまうことに同情をしてしまうのです。

“生徒”の好みで授業の内容は決まるのではない。かといって“教師”の好みでもない。それでは何が授業の内容を決めているのかと言えば“社会”である。学生には現在の“社会”、そしてこの先の未来の“社会”が将来の社会人に期待しているものを学ぶ義務があるのだ。

こういうことがなぜ理解されないのでしょう。学校は、教育現場は、おそらく社会的なこの状況をどう捉え、子どもたちとどう関わっていけばよいのでしょう。

大きく話が脱線してしまいましたが、とにかく、今度の文化祭では観る側の態度が課題でしょう。観客の態度が変われば紳助さんの言うとおり、やる方のテンションが変わってくるはずです。中学でも来月学習発表会があります。数回ではありますが、これまで見てきた中学生の鑑賞態度は比較的良いと思うので、それに加えて、「やる方だけでなく観る方も発表会をつくっている」「やる方の身になって観ることがどれだけ大事か」ということを実感させたいなぁと思っています。

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