どちらかと言えば「石橋を叩いて渡る」ような性格だった僕に、
「火中の栗を拾う」ような”強さ”を与えてくれた出来事がある。
母の入院・・・そして、あっけない別れ。
僕の教師としての”原点”でもある。
大学を出て、念願の教師として勤め出して半年あまりが経った10月末・・・。
ようやく学校での仕事の内容がわかりかけてきた頃だった。
最初、母が倒れた時は、ちょうど稲の刈り取りが一段落した時期だったので、
たぶんその過労だろうと家族の誰もが思っていた。
普段からめったに病気などしない、元気な母だったから、
すぐによくなるだろうと、そんなに深く気にも留めなかった。
それまで、家の中で、母というのは、いて当然の存在だったから、
別にその意味など深く考えていなかったが、
いざその存在が家の中からなくなると、なかなか面倒なことが多いものだ。
食事の支度を始め、洗濯や掃除など、これまでは気にもしなかったことが
(当然目につかないところで、それを母がやっていたわけだが)
次から次へと襲いかかってくる。
そんな生活も半年・・・
入院生活にピリオドを打ち、昭和58年の春に他界した母。
葬儀の日、当時担任をしていたクラスの生徒の代表が
遠方にもかかわらず参列してくれた。
その手には千羽鶴が…
4月に入学して、まだそんなに日も経っていないのに、
担任の知らないところで鶴を折っていてくれたなんて。
「ごめんなさい、願いが通じなくて…」
そう言いながら渡してくれた時、それまでこらえていた涙が止めどなくあふれてきた。
今思うと、たくさんの人がいる前で男が泣くなんて恥ずかしいことだったが、
その時ほど生徒の純粋さ、思っていてくれる気持ちのありがたさを感じたことはなかった。
先生(担任)っていいもんだ、先生をやっていてよかった・・・。
状況が状況だけに、そういった気持ちが必要以上に増幅されたのかもしれないが、
先生という仕事の素晴らしさを感じさせられた出来事だった。
それと同時に、こっちも、生徒に対して一生懸命ぶつかっていかないと申し訳ない。
ということを改めて感じ、深く心に刻んだのも事実だった。
先生になって2度目の新学期が始まったばかり。
二十数年前の、まだ初々しい頃のことである。
それ以後も、しばらく、父と妹、そして僕の3人の生活が続く。
病院通いをしなくていいようになった分、気分的にはゆとりが持てたような気もするが、
何かにつけて不便さを感じるのは相変わらずだった。
家事についてもそうだし、
妹にとっては家族の中で唯一の同姓(女性)がいなくなったわけだから、
はるかに辛かったと思う。
また、父にしても、かけがえのない人生の伴侶を失ったことは、
心に大きな空白ができたに違いない。
そう考えると、僕が一番、気持ちの上ではゆとりがあったのかもしれない・・・。
周囲の人からは、「大変でしょう・・・」「がんばってね・・・」の励ましの声とともに、
何かにつけて援助を受けた。
でも、そう言われれば言われるほど、自分自身が強くなるというか、
そんなこと言ってくれなくても大丈夫だから・・・という気持ちが起こってきた。
もう普通でいい、いつまでも(母が死んだことを)特別なことだといって
引きずりたくない・・・。そんな気持ちがあったのかもしれない。
当時のこと・・・。
今となっては、すでに過去のものとして余裕をもって語れるが、
これも“母のおかげ”かもしれないと思う時がある。
自分がここまで強くなれたのも、死という別れを通して母が僕に教えてくれた
最大の教育であったという気がする。
親離れというにはあまりにも突然で、辛いことだったが、
それだからこそ親の思いを心に刻むことができたし、
親への依存心をいい形で払拭することができた。
もし、今も母が生きていたとしたら、
僕自身、もっと甘い人間になっていただろうと思う。
そういう意味では、母がこういう形で去っていったことが、
かえって僕を一回り大きな人間に成長させてくれたことはまちがいない。