2006年5月アーカイブ

人とのつながり

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昨日の日記を読んで、春菊さんが、
掲示板にこんな書き込みをして下さいました。


お邪魔いたします。
5/30の日記読ませていただきました。
高校生の心の相談室に打ち明けた内容なんですが
自分自身も大体同じ様なこと思ったりしながら
ここ約10年ぐらい過ごしているような気がします。

同じような事思ってる人がいて
ある種ほっとしたり。。
多分皆さんの中にもどこかにそうゆう部分を
持っているのかな?なんて思ったりしました。
気分の持ち方一つなのかな?
とは思うのですがなかなかうまくはいかない
模様です。。汗


なんだかすごくわかるような気がして、
思わずここで紹介したくなりました。

高校生だけじゃなく、人間誰でも、いくつになっても
この種の悩みは抱えているものなんですね。

よほどの物理的要因があれば別ですが、
それが気持ちの持ち方一つだってことはわかっていて、

でも・・・
それでもうまくいかない・・・。

現実は、そういうことの繰り返しなのかもしれません。

それを打ち破るカギは・・・

”人”
”人とのつながり”

・・・だと思います。


春菊さん、ステキなつながりをありがとう!

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ある高校生が、「心の相談室」に打ち明けた悩みです。

最近、ものすごく絶望的な気持ちになります。
これから先の自分の将来を考えると、何もかも嫌になってしまうんです。
大学生活、そして社会人になっても、
きっと何もかもつまらないだろうって思えてしまうんです。
世の中も、すっごく狭いものに思えてしまって、生きていたって、
たいして感動することもないようで、つまらなく思えてしまうんです。
そうなると本当に、何もする気がなくなって、
情けなくなるくらい、今の自分はだらしないのです。
受験に対する不安もあるんじゃないか、と思うんですけど・・・。

こういうのは、目標がはっきりすれば、
多少やる気も出てくるものなのでしょうか。

でも、目標を決めようとすると、自分はどういうものに向くのか、
自分にはどれくらいの能力があるのかとか、
不安でよくわからなくなってしまうのです。

何が自分に合っているのか、
それを見つけるにはどうしたらいいのでしょうか。
それから集中力をつける方法と、
気持ちの切り替えをすばやくする方法は、
どういうのがあるでしょうか。

それと・・・、こんなことを聞くなんて、
私はやっぱり甘えているんじゃないかと思いますが・・・。

この相談に対して、ある精神科医がこんなアドバイスをしました。

私にも、同じような人生の課題があるんだということを知ってもらったうえで、
いっしょに考えてみましょう。
よく、人生は山登りのようなものだと言われます。
目標の頂上に向かって、たゆまず努力をすべきだと。
私は、それが間違っているとは思いませんが、
2つだけ”注釈”をつけておきましょう。

まず1つめ、目標の山は高ければいいというものではありません。
誰もが富士山に登ることはないのです。
たとえ低くても、いい山はたくさんあります。
そして頂上に登るだけが目的だというのは、いかにも愚かしいと思います。
山道を登りながら、草花を見て、谷川の水に足をひたす喜びがあってこそ、
山登りなのです。

そしてもう1つ、あなた方は競走馬ではないということです。
それぞれ立派に人間なのです。
自分を受験だとか、世の流れに安易に売り渡して(流されて)はなりません。
また、あなたが”私はやっぱり甘えているんじゃ・・・”と考えているのを、
そのまま、そうだとは思いません。
若者が将来のことを考えて、夜も眠れずに不安になっても、
そんなことは後回しにして、今はともかく勉強を一生懸命しなさいと言われる。
それを覚悟で相談すると、”何をぐだぐだ言っているのよ。甘えなさんな”
と言われかねない現状だからです。

でも、人が自分では支えられないくらい重い問いかけに直面したとき、
こらえきれずに人に相談することは、甘えでも何でもありません。
そんなふうに、上手に人に依存することも人生においては必要です。
そして、そういう術を得た人が、
やがて人から上手に依存される人問となるのですから・・・。

人それぞれに、多少、状況は違うでしょうが、
ふっ・・・と不安になったとき思い出してもらえればと思います。

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今日、仕事から帰って作り始めた町内会の広報誌。

行事ごとがたくさんあったので、写真を多めに入れてっ・・・と、
さっき(午前3時過ぎ)、完成したぁ~! 

町内広報6月号











今回は、記事の関係でギリギリまで取りかかれなかったので、
ある意味、突貫工事みたいなノリで作る羽目になってしまっった。

これから印刷をして・・・っと、

明日の朝には公民館に届けられるかなっ。


あっ、下の「投稿時間」は、今日の記事だっちゅうことで、
4時間ほどさかのぼってます。
今、午前4時前。
ひえ~っ、今日の仕事・・・眠たいかも。

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朝のうち降っていた雨も上がり、時折、太陽が顔を出す中、
稲枝地区ソフトボール大会が行われた。

Cゾーン、第2試合に出場した当町は、
初回、 ピッチャーの立ち上がりで苦戦したものの、
2回以降は持ち直し、打撃戦に突入。

地区ソフトボール大会1 地区ソフトボール大会2







中盤になって、両チームともにひと休みしたのか
点数の動きがなくなり、一時膠着状態。

そのまま最終回にもつれ込み、4点差で迎えた当町の攻撃。

地区ソフトボール大会3






1点を返し、2点3点と順調に追い上げ、
2塁3塁と逆転のランナーを溜めたところで、
痛恨の内野フライで2アウト。

次のバッターに望みを託すも・・・
3塁線に転がったボールは、無情にもファーストグラブに収まり、
ゲームセット。

8対9。

1点差で涙をのんだ。

夕方から行われた反省会では悔しさが爆発。
この借りは来年、絶対に返すぞと誓い合った。

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元同僚のお父さんの話だ。

お寺の本堂にある掛け軸に、
「人生は長さでなく、深さである」との一文があったそうで、

それを見て、

「人生は長さでもなく、深さでもない・・・。広さだ。」
とおっしゃられたとのこと。

幅広い人生の中で、いかに人とのつながりを結び、
その縁を大切にしていくか・・・

それこそが人間の生きる道だと。

うむ、納得。

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百人一首

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覚える、あるいは暗唱すること。
先生に言われて、「何でぇ~」とついつい反発したくなる。

でも、たぶんその言葉には、素直に従った方がいい。
先生は<あなたのために>言って下さってるんだから・・・。

高校の1年生の・・・確か冬休みだったと思うが、
「百人一首のテスト(口頭試問)をするから暗唱せよ」という宿題が出された。
まず「何で覚えなきゃならないんだよ~」と思ったのが悪夢の始まりで、
「こんなもん覚えたってどうなるんだ? 覚えるより、じっくり鑑賞するもんだろうが~」と、
その宿題を出した張本人(古典の先生)が担任だったこともあって、
最初から反発し、まるっきり覚えようとせず、まあ何とかなるだろうと、たかをくくっていた。

今になって思えば、この種のものを覚えるのが苦手だという意識があり、
それが嫌で逃げていただけだった。

ところが、休みがあけていざテストという時になって、
初めて自分の愚かさを実感することになる。
ほとんどの生徒がきっちり覚えてきていて、当てられてもスラスラと暗唱できるのだ。

「えっ、うっそ~! みんな完璧じゃない? どうしよう・・・」

先生が最初を読み上げて、それに続けて最後まで暗唱しなければならない。
どれを先生が読むか、10首くらいなら何とか覚えられても、全部の中からとなれば、
とうてい付け焼き刃で対処できるほど、生易しいものではない。

案の定「再テスト」。
後日改めて試験を受けることになった。
仲間が、数人はいたと思う。

数日後、再テストの日がやってきた。
自分では覚えたつもりでも、最初にいい加減だったツケがまわってきて、
思うように頭に残らない。
覚えてもすぐに忘れてしまい、ただただ焦るばかり。

再テストの結果は・・・みごと「不合格!」。
職員室に呼び出されてのテストを受けることになった。

2~3日経って、職員室へ行く日がやってきた。さすがにこの時になると必死だ。
「おじゃまします。百人一首を言いに来ました」と言って職員室に入ると、
全員の先生の目がこっちを向く。
何とも恥ずかしく、情けなかったことは、今もはっきり覚えている。
全部で10首、完璧に答えられたら合格だったと思う。

1回目のチャレンジ。
3首めくらいで言えなくなり、あっさり「再々テスト」へ。

再々テスト・・・。
いったい誰が受けるの?
すでにお互いに探り合える余裕もなく、もう誰もいないんじゃないかと焦るばかり。
緊張感がしだいに高まり、声が震えるのが自分でもわかった。
1首終わるごとに汗が噴き出し、
頭の中が空っぽになりそうで、どこか別世界にいる気分だった。

1首、また1首と、やっとの思いで答えていく。
そして、何とか無事に10首を言うことができ、晴れて合格!

この時ばかりは完全に負けた。
悔しいけど、先生に「ありがとうございました」と言っている自分がいた。

最初の<威勢のいい自分>はいったいどこに行ってしまったのか・・・。
今、思い出しても恥ずかしくなる、若かりし頃の「エエカッコしい」の失敗談だ。

やっぱり先生の言うことは聞くもんだ!

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詩人の榊原淳子さんが、ある新聞にこんなことを書いている。

高校の頃、進路指導室のとなりには新築のきれいなトイレがあって、
朝、15分ぐらい、そこでバカ話をして大笑いするのが私たちの日課だった。

オヤマ、アリタ、カキノキ、この3人の名前は、もう会うことのない今でも、
すらすらと思い出すことができる。
この3人は実に個性が強かった。
テレビで活躍しているコメディアンよりも、ずっと才能があった。
決して笑顔を見せないクールな優等生も、彼女らにかかったらイチコロである。
彼女らがその気になりさえすれば、おしっこをもらして「もうやめてくれ」と
懇願するまで笑わせ続けることができるだろう。私は今でもそう信じて疑わない。

彼女らは「ミナミハナオサお笑い3人組」と呼ばれていた。
南花長(ミナミハナオサ)町というところに住んでいたのである。
そのお笑い3人組が毎朝、進路指導室のとなりのトイレでバカ話をしている
という情報を得て、私はほとんど無理矢理と言っていいくらいの強引さで、
その仲間に加わった。

毎朝、腹がよじれるほど笑った。
あれほど笑いに満ちた日々というのは、今、考えるとちょっと不思議でさえある。
今、一日にあの頃の10分の1も笑っていない。
ひょっとすると100分の1も笑っていないかもしれない。
あれほど激しい笑いというのを、このところ経験していない。
一生分の笑いを、あの頃で笑いきってしまったのではないか
という気がしてくるくらいだ。

話は小学校の頃にさかのぼる。
図書室で『笑いを売った少年』という本を見つけた。
雨降りの放課後、別にやることもなく、その日は本を読んで過ごすことに決めていた。
笑顔のかわいい少年が、ある日、見知らぬ紳士に笑いを売ってくれといわれる。
少年は奇妙な話だと思いながらも、目先の欲に目がくらんで、言われる通りにしてしまう。
それ以来、これまでの屈託のない笑顔にとってかわって、ふてぶてしい“ほくそ笑み”が
彼の顔に浮かぶようになる。
それまで誰からも愛されていた少年は、もう誰からも愛されなくなる。
そうやって不幸のどん底へと落ちていくという、不気味な話だった。

笑いを失うということは、大人になるということなのだと思う。
この本の中の少年は、年をとる間もなく大人になってしまったわけで、
それは確かに悲劇と言える。
しかし、遅かれ早かれ、誰にでも訪れる変化なのではないかと、私は思うのだ。
子どもの無邪気さのまま笑い続けていられる権利なんて、
誰にだって与えられているはずはないのだから。

子どものうちは、自分を中心に世界がまわっている。
世界が自分を愛してくれているのを、十分実感することができる。
大人になるということは、世界と自分の境界を、きっちり区別できるようになるということだ。
世界が必ずしも自分を愛してくれないだろうということに、うすうすは勘づいている。
それでも生きていけるほどに図太いこと、それが大人として生きていくための条件だ。
私は大人だ。一日のそれほどたくさんは笑わない。
だからこそ、過ぎ去った日々の本当の価値を、正確に理解することができる。
それを懐かしみ、冷静にそれを愛することができる。
時々は、あの頃のバカ笑いを思い出して、せつなくなることもあるわけだが・・・。

少し長い引用になったが、今の皆さんにも、ある部分当てはまる内容ではないかと思う。
「自分と世界(周囲の社会)の境界を、はっきり区別できるようになる」、
「周囲が自分を愛してくれないことがわかっていながらも生きていける」…。
それが大人の条件だそうだ。
“自分勝手”や“甘え”が許されないということだろうか。

無意味な笑いなら必要ない。
真剣に生きる中で、心から笑える自分でありたいと思う。

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いろんな種類の動物がいるが、その《目》はどこについているだろう。

当然、顔だよ…。

そんな答えが返ってきそうな気もするが、
じゃあ、顔の”どの部分”に”どちら向き”についてる?

実は、動物の中には、目が頭の上の方についているものもあれば、
横の方についているものもあるし、前の方についているものもある。
もちろん、この目の位置は必要に応じて決まっているのであって、
それなりの理由がちゃんとある。

例えば「タカ」と「キジ」。
この2つは、全く性格の合わない鳥だといわれている。
キジは常にタカに脅かされているし、
タカは常にキジを捕らえて食うために虎視眈々としている。

ところが、この2つの鳥の目を見ると、タカは前に向かってついているが、
キジは頭部についていて、後方をも見られるようになっているのだ。

このことについて、石川千代松という人の本の中には、
次のような記述がある。

動物の中で、主として他を攻撃してこれを捕らえて食べている
ライオン・トラ・ネコ・タカ・ワシ・フクロウのようなものは、
なにも逃げながら後ろを見る必要がないので、目は前に向いてついており、
ウマ・シカ・ウシ・ヤギ・ヒツジ・ガチョウ・ハト・キジのように、
主として菜食で、常に逃げることに注意を払っている動物は、
後ろも見る必要があるので、頭側(横側面)に目がついている。

なるほど、そういう解釈もできるのか。
たぶん、生物学的にみても間違っていないだろうし、
猟の専門家などに聞いても、キジなんかは草むらの中を逃げながらも、
常に目は追ってくる者の方を見ているというから、この考えは正しいのだろう。

それならば、人間はどうか。

目のつき方、向いている方向は…?
どう考えても”前”である。

ふだんの生活の中で、捕らえられることを恐れるわけでもなく、
(ドロボウさんは、別かな?)
逃げる必要もないのだから、当然と言えばそれまでだが、
別の言い方をすれば、
その分もっとしっかり前を見て進めということにならないだろうか。
横なんか向いていないで、前を向いて仕事をしろ。
わき目もふらずに勉強をしろ…なんて、そんなふうに言えなくもない。

人間の目が前に向いてついている以上は、
常に前向きに、先のことを考えながら生きていかなくちゃ…。
そんな言い方をされても当然なのだ。

しかし、どういうわけか、現実にはこれに当てはまらないことを、
しばしば起こしがちだ。
横や後ろなど周囲のことが気にかかり、あちこちを振り向きながら、
ついついそれに惑わされてしまっている。
勉強をすべき時なのにテレビや遊びが気になったり、
自分が周囲の人と一緒じゃないことを気にしたり…と、
数え上げればきりがない。

ところが、内容によっては、前しか見ないこともある。
好きなことに夢中になる、芸能人を追っかける、漫画を読みふける…などなそ。
同じ人間とは思えないほどの変わりようで、
目の色を変えて一つのことに突進している。

これは、いったいどういうことなのだろうか。

目が前向きについている以上、
人間は本来、前に向かっていくべき生き物のはずだ。

好き嫌いにとらわれず、何事にも一生懸命打ち込まないと、
そのうち目が顔の横っちょにいっちゃうぞ!?

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作文の基本

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ちょっと前の話になるが、朝日新聞「がっこう2004」に、
ある小学校の先生の、こんな授業風景が紹介されていた。


国語の時間、先生は黒板に「1+1」と大きく書いた。
「これが作文の基本だよ」。
事実を1行書いたら、気持ちや意見を1行書く。
「運動会がありました。うれしかったです」と例文を書く。

次は「事実2+気持ち1」を書いてみよう。
藤川優梨さんは
「きょうキックベースをした。ヒットを1本打った。楽しかった」
と書いた。
「4+1」で古賀俊貴くんは
「キックベースをした。ヒットを2本打った。1回だけアウトになった。
守るときはファーストにいた。楽しかった」。
ノートが文章でどんどん埋まった。


どうして、先生はこんなことをしよう思ったのか・・・

”順序立てて考え、書き、話す力”を育みたいという願いからだという。

答えは合っているが、どうしてそうなるのか、筋道を考えるのが苦手・・・
確かに、自分の言葉でうまく説明できない子どもが増えているように思う。

もしかすると、大人だって同じかかも・・・
読めない、書けない、語彙力に乏しい、話があっちに飛び・こっちに飛び
「それで、結局何が言いたいの?」

振り返って、自分はどうだろう??
ちょっと、ズキンとくるものがった。

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今日は、ある高校生が書いた一文を紹介しよう。


考えてみたら、私はいままで自分で
「これだけは他の人に比べて頑張った」と思うようなことが、
これといってありません。

私は、幼稚園のときに、ピアノを習っていました。
習うための動機も単純で、
単に、お姉ちゃんや、友達が、習っていたから、
私もやろうかな・・・と思っただけで習いはじめたのでした。

思い出してみれば、
この時からすでに私は頑張ろうとか努力しようとか
そういう面倒なことが嫌いな怠け癖のある子だったのです。

そんな子だったので、
ピアノもはじめは頑張ろうと一生懸命だったのですが、
次第に、練習するのが面倒くさくなり、
いやいや続けて、なんとか6年間・・・続けました。

ですが、6年間やってきたわりには、いやいや続けていたせいか
一緒の時期に入った友達よりも上達するのが遅く、
1人だけ大幅に遅れていました。
今から思えば自分自身がとても情けなく思えます。

結局、私は人においていかれるのと、
やる気のなさで楽譜を最後まで終らすことの出来ないまま、
ピアノをやめてしまいました。

それからも塾などいろいろ習いましたが、
やっぱり途中で面倒になりやめてしまいました。

けれども、高校生になってから私は変わったのです。
変わったといってもちょっとだけですが、
なによりも一番頑張ったことができたのです。

何を頑張ったかというと、
遅刻・欠席をほとんどしないようにしたのです。
当り前のことだと思うかもしれません。
でも、私にとってこれはすごいことなのです。

なぜなら、私は前にも書いたとおり怠け者だったので、
中学校の時は、ほとんど毎日、遅刻をしていました。
さすがにこれではいけないと思い、
高校に行ったら絶対に遅刻と休むのはやめようと思ったのです。

そして、この高校3年間本当に自分ではよく頑張ったと思います。
遅刻は、雪のため電車が遅れた時だけだし、
欠席したのも、風邪をひいて寝こんでいたときだけです。

他にも今まであまり頑張らなかったことも、
ちょっとは、努力してみようと心がけています。

私が、この高校生活で思ったことは、
自分も頑張ればちゃんとできるんだということです。

今までは、何事もやるまえからどうせ無理だとか、
やっても同じとか、面倒くさいとか思っていました。

でも今では、
努力しなかった今までの自分がとても情けなく思います。
もっと精一杯頑張れば良かったと後悔しています。

でも、いまさら昔のことを悔やんでもどうすることもできないので、
私はこれからの将来に
今までの努力しなかったぶんを取り返すくらいの頑張りをしたい
・・・と思っています。

そして、最後には、いろんなことを、頑張って良かったなと
心の底から思えるようにしたいと思います。

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今日は、お寺で「降誕会」があった。

ふだんそれほど信仰心が強いわけではないけど、
”お念仏”には不思議な力があるような気がする。

ココロの浄化作用とでも言うのだろうか・・・

たとえわずかでも、自分を見つめ直す時間を持つことは、
やはり必要なんだと思う。


さて今日は、あるファーストフード産業の話をひとつ。

お客さんに清潔感を持ってもらうためには、
当然、店内を「美しく」しなければならないということで、
汚れたら拭くとか、きちんと掃除をするなどをするだろう。

しかし、マニュアルには、
これだけでは「美しく」なったとは言えず、
単に「きれい」になっただけだと書いてあるらしい。

「きれい」から「美しく」へは、何が必要なのか・・・。

そう”心”だ。

汚れを拭き取るだけでは「きれい」になるだけで、
それ以上に心を込めて磨き続けるから「美しく」なるのだという。

お客さんに、汚れたところで食事をしてもらうわけにはいかない。
「きれい」にするのは当然のことだ。
だから、それ以上にお客さんにできることといえば、
店内に磨きをかけて「きれい」を上回る関心を持ってもらうこと。

見た目だけの”きれいさ”じゃなく、
気分や心を込めた”きれいさ”をもってもらうこと。

すなわち、それが「美しさ」だというのだ。

暇を見つけては、心を込めて磨く。
それを続ければ、やがて「美しく」なっていく。

でも、これって”人の行い”にもあてはまるんじゃないだろうか。

いけないことをすると心が汚れる。だから、しないでおこうと考える。
そう思うことは間違いではない。

でも、それだけではダメなわけで・・・。

常に、よくなろうと思って努力して、
心が「きれい」な人間から、「美しい」人間になっていく。

それこそが必要なんだと。

「きれい」と「美しい」の違いがわかる生き方をしていきたいものだ。

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英英辞典

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英語の学習に、英英辞典を使うと良いと言われている。

ふだんから英英辞典を使っていると、自然に多くの英語に接して、
英語の意味を積極的に考えるようになり、thinking in English の習慣がつき、
わかりやすくて役に立つ表現も自然に頭の中に蓄積されていく。
いわゆる、英語の思考回路ってやつができてくるわけで、
英語のコミュニケーション能力がついてくる・・・。

なるほど、そうだろう。
でも、それがいいとわかっていても、やるのは苦痛に決まってる。

そこを無理して使ってみた。

単語の意味を調べるためにではない。
英英辞典を楽しむために・・・だ。

一つの単語を引くと、よりわかりやすい単語で説明されている。
その中でわからない単語だけを引く。
そして、またわからない単語に出くわす。
また、それを引く・・・。

芋づる式に英文をたどり、
辞典と会話しながら英単語を確認しているような錯覚に陥る。
実際にやってみると、どこかパズル的で面白く、
さほど苦痛は感じない。

これはいいかも・・・。

よし! 毎日少しの時間でも、英英辞典とにらめっこしよう。

すぐに効果が表れるわけではないだろうが、
頑張ってやり続ければ、何かが見えてくるに違いない。

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今から数年前、海外研修でAustraliaにステイしていた時、
「THE AGE」紙に、日本の英語教育に関してこんな記事が掲載されていました。
ぜひ皆さんにも読んでもらいたくて、ここに転載します。

 JAPANESE STUDENTS are confronted with linguistic, cultural and
sociological problems in the classroom. In addition, they are hindered
by traditional methods of studying English strictly through grammar
and translation -- grammar that is often misunderstood even by
native speakers. The students usually have a large passive
knowledge of English but their active usage (oral/aural skills) is
limited.
 Teachers have to encourage students to overcome their fear of
making mistakes. Their performance anxiety has to be witnessed
to be believed. Students often think there is only one correct answer
to any question and are afraid to speculate as to what else might be
correct.The endless repeating of a teacher's question rather than
answering it, and the response "who, me?", can be very frustrating.
 Japanese elementary and secondary schools cram a great deal of
knowledge into students in order for them to gain entrance to high
schools and universities. Knowledge gained through cramming is
easily forgotten. Japanese high school education often contributes
almost nothing to the development of one's thinking ability.
In science classes, experiments are often left to the bare minimum
so as to leave more time for rote learning.
 Scoichi Kobayashi, professor emeritus of international relations at
Aomori University, noted, in the Japan Times of August 3, 1999,
that the Teaching of English as a Foreign Language tests
administered by the UN put Japanese students 181st among the
189 member countries of the United Nations.
 Like all statistics, these cry out for a deeper look. Represented
as a percentage of the overall population of college-age students,
the number of Japanese who take the test is significantly higher
than in other countries, thus distorting the result. Either way,
the results are depressing, particularly
given the amount of time, money, effort spent on "teaching" English.
 ESL (English as a second language) instructors should be aware of
typical student problems. Aside from the ones mentioned above,
the most common problem areas are:
  1. I believe that many Japanese have a poor command of their
        mother tongue. How can students who cannot handle their
        mother tongue acquire a second language, particularly English,
        which is so different from Japanese?
  2. Few Japanese English teachers are fluent in English
        (LOTE teachers here often have similar problems).
        To make matters worse, many Japanese teachers of English
        started teaching as soon as they graduated from university
        --- where they never really studied how to teach.
  3. Difficulties with:
  -- word order (syntax): eg, "man coffee drinking."
         (In Japanese, the verb is always at the end of the sentence.)
  -- word choice: eg, saying "I exciting" rather than "I'm excited."
  -- countables/uncountables: eg, "they are many rices",
         "they saw much cars".
  -- pronunciation: particularly with l/r, b/v, ci/si, shi/she, etc.
  4. Stress and intonation: English is a timed/stressed language
        whereas Japanese is a syllabic/sometimes pitched,
        unstressed language.
  5. Listening comprehension: students have difficulties in hearing
        English properly and detecting differences between singular
        and plural words as well as other sounds.
  6. There is either a complete lack of use of prepositions and
        articles or a massive over-use of them.
  7. Confusion exists between the North American version of
        English and the  "Queen's" English.
  8. The adding of "o" to many words, eg, hott/o, sett/o, dat/o.
  9. Japlish: A mixture of Japanese and English that is hardly
        conducive to learning  English. For example, you can read
        on the side of a bread package: "Our little friend 'TOMTE'
        use magical secret power for delicious BREAD that.
        Well enjoy in next morning. Children who living in
        NORTHERN EUROPE tell us secret that just baken BREAD.
        Yes TOMTE's secret."
 A new system of teaching English conversation lessons, currently
being tested, will be introduced in public elementary schools in 2002. 
The question needs to be asked: Do all Japanese need to speak
English? And will they?
 Yes, said an advisory panel to the then prime minister,
Keizo Obuchi, which recently outlined Japan's goals for the 21st
century.
 The panel urged all Japanese to acquire a working knowledge of
English before they became adults and called for a national debate
on making English an "official second language".
 The lack of proficiency in English will be a "national crisis" in the
21st century, says Tadashi Yamamoto, executive director of the
prime minister's panel and president of the Japan Centre for
International Exchange.
 At international conferences, Japanese leaders' lack of influence
is apparent because many other Asian leaders have a good command
of English, Yamamoto says.
 "Japanese leaders must be able to speak directly with their
counterparts without using interpreters otherwise Japan will be even
more under represented in the inter national community."
 Yoichi Funabashi, a member of the prime minister's panel and chief
diplomatic correspondent for the Asahi Shimbun, has been one of the
most vocal advocates of making English an official second language.
 "The time has passed when only a handful of elite people explained
Japan's stance to the world," he says, adding that Japan's
"critical mass" must be able to communicate in English given both
globalisation and the Internet, where 80 per cent of information is in
English.
 It must be noted that I tried to learn Japanese twice in Melbourne
but failed. Another problem for Australian students of language
occurs because of current educational trends which mean that their
knowledge of grammar rules is even worse than that of the Japanese.
This is a feat that I would have thought impossible.

(Education Age:Wednesday July 26, 2000)

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儚・偽

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教室の後ろの黒板に、こんな文字が並んでいた。

人の為と書いて「偽」
人の夢と書いて「儚」

なかなか意味深げで、思わず「いいなぁ」と言ってしまった。

いったい誰が書いたのか・・・
生徒たちも、思わず黒板に向かって頷いていた。

『おかげさん』(相田みつを著・ダイヤモンド社)にも
“人の為と書いていつわりと読むんだねえ”
という言葉が収録されている。

同じような漢字遊び?をするなら

信じる者と書いて「儲」
「人」は「憂」いると「優」しくなる

・・・ってのは、どうだろう。

少し古いが、1996年3月15日(金)の『News23 多事争論』で
「儚・偽」と題し、筑紫哲也氏がこんな話をしている。

そして、もう一つのお便りで私は非常に胸を打たれるというか考え込まされたのですが、
40年間小さな会社で経営にも加わり経理をずっと担当していた62才の女性の方が
初めて投書というものをなさった。
で、「経営が悪化して退職金も何も無くなったために、老後にロ-ンをどう払うかという
問題に直面しているわけですが、会社を辞めたら旅行をしたり、俳句を作ったり、
日本画を描いたりということがすべて夢で終わった」と。
「人の夢と書いて『儚(はかな)い』と読む、人の為と書いて『偽(いつわ)り』と読む。
これが、40年間自分が生きてきて過ごしてきた人間の感想です」と。
こういう話を住専の税金を使おうとしている人達はどうお聞きになるのか?

ええっ
なんだか・・・人間って、寂しい生きものなんだなぁ~って、思えるじゃないか。

事実、そういう側面もあるだろうが、
誰だって自分一人では生きていけないのだから、
やはり「人」の「為」に何かをしたい・・・

たとえそれが不完全で、相手に満足してもらえなかったとしても、
気持ちは通じ合えるものだと信じたい・・・

こんな時代だからこそ、なおさらそう思う。

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おかげさまの心

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「山びこ学校」とか「詩の授業」などの実践で知られる教育者、
無着成恭(むちゃくせいきょう)さんが、ある雑誌にこんな一文を載せている。

私が小学校6年生のとき、僧侶であった父のお供をして、
檀家の法事にお経を読みに行ったことがある。
7月だった。
お経のあと、汗びっしょりになった私に、その家のおばあちゃんが、
おしぼりを貸してくれた。
私はそれを返すとき「おかげさまで、さっぱりしました。ありがとうございました」と言った。
それを父が聞きとがめて、「おかげさまって、どういう意味だ」と聞いた。
おばあちゃんは、「うちの法事さ来てまでも、ご坊ばいじめなくたっていいではないか」
と言ってくれた。
そしたら父は、「いじめてんじゃない。
子どものくせに、“おかげさま”なんていう大人の言葉を使ったから、
わかって使ってるのか、わからないで使ってんのか、聞いてみたんだ」と言って、
「人間と人間以外の一切の動物との違いはどこにあるか」と聞いたのだった。

サルやリスは木登りの名人で、だからクリもぎやクルミもぎの名人だ。
だけど、サルやリスはクリご飯を炊いて食べるわけでもないし、
もちろんニンジンのクルミ和えなんていう料理をつくって食べることはない。

人間以外の一切の動物は、自然に存在するものを、
そのままいただいて生きているのだが、人間は、自然からいただいてきたものを、
使いやすいように加工したり、食べやすいように料理したりする。
だから、人間の生活の中で使われているものは、すべて、自然のままのものは
一つもない。

たとえば、おまえが、今、顔を拭いた、このおしぼり。
これだって、おしぼりのなる木になったものじゃない。
どこかのお百姓さんが畑を耕し、綿のタネを蒔き、育てて、花を咲かせて、
実をつけさせて、コットンボールがはじけて飛び出してきた綿を摘み取って、
それを紡いで、織りあげて、この一枚のおしぼりになったのだ。

この一枚のおしぼりが、ここにあって、おまえの顔を拭くことができるのは、
目には見えない、そういうたくさんの人々の働きでできたことなのだ。
このおしぼりには、そういう人々の影がついてまわっているのだ。
それは、どこの誰とは言えないから“影”としか言いようがない。
だから、その“影”に“お”をつけて、「おかげさま」と言うのだ。

「おかげさま」という言葉を使うときは、目には見えていない、
そういうたくさんの人々の“ご縁”が見えるようでなければいけない。
そういうことを、目に見えないものが見えるようになった…と言うんだ。

成恭、今、座布団に座っているだろう。
座布団に座っているという思いで座っているか、それとも、
座布団をつくってくれた人の上に座らせていただいているという思いで座っているか、
どちらだ!!

さて、どうだろう。
「おかげさま」という言葉の解釈が、国語的に見て、これでいいのかどうかは別にして、
なるほどと思わせる部分は十分にある。

私たちが使っているもの、食べている食品、着ている服…。
それらのすべては、誰か“人の手”がなければ、決してこの世に存在しないものだ。
「米」にしても、農家の人々の「八」「十」「八」の苦労があってできるもの。
だから、一粒だって無駄にしてはいけない…なんてことを、聞いたことがあると思う。

私たちは、何から何まで自分でできるわけではない。
周囲の人々、目に見えないたくさんの人々に“支えられて”、
“生かさせてもらって”いるんだということを、改めて感じる必要があるだろう。

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だいぶ前のことになるが、サンケイ新聞(夕刊)に
SF作家が寄せた、こんな一文があった。

題して『誤字強制』。

「社内文書に厳しいとお聞きしまして取材にうかがったのですが」。
「社内に限りません。文書は会社の文化レベルを示すものですから、
間違いがあっては会社の名誉を傷つけます。
正確に簡潔に。
特に誤字には厳しく注意するよう、わが社独自の矯正システムを開発しています。

実際に見ていただくのがいいでしょう。社内をご案内しましょう。

まず、あそこにキャスター付きの机を押している社員がいるでしょう。
『人事異動』を『人事移動』と書き間違えたのです。
そこでシステムが作動して、"移動"するよう命じたのです。
これに懲りて同じ間違いはもうしないでしょう」。

「ずいぶん早口で報告している社員がいますね」。
「一部始終を報告せよと言われて、『一分始終』と書いたのでしょう」。
「間違うと、誤字どおりに実行することになるのですか?」。
「一日だけですがね。言葉というのはそれほど厳しいものです」。

「あそこで、窮屈そうに一つの椅子に二人腰掛けていますが」。
「『一身同体』とでも書いたのでしょう」。

「その隣の社員は目を赤くして眠そうですね」。
「ああ、賃上げ要求のワッペンに要求貫徹を間違えて『要求完徹』と書いたのですよ。
徹夜マージャンじゃあるまいし。強制的に完全に徹夜させられたわけですよ」。

「時計を見て困っている社員は?」。
「『未だに』を『だに』と書いたので、時計が壊れたのでしょう」。

「あの背中を丸めている社員はどうしたんですか」。
「職場体操で、屈伸運動を『屈身運動』とやったんですな」。

「わっ、この会議室の中で誰かが喧嘩していますよ」。
「職場委員会の委員選出ですな。ああ、わかりました。
投票が『決戦投票』になったのでしょう。まるでヤクザの跡目争いだ。
ま、これに懲りて今度は『決選投票』になるでしょうが」。

「わあっ、あちらで何か大騒ぎしていますよ。けが人が出たようです」。
「またか。新入社員がよくやる事故だ。
単刀直入にというのを『短刀直入』にするから、危なくてしょうがない」。

「表で車の事故が起きたようです」。
「救急車を呼ぶつもりが『急救車』を呼んだので転倒したのでしょう」・・・。

「いやあ、勉強になりました。
さっそく、誤字強制システムの記事を書かせていただきます」。
「あっ、『強制』ではなく『矯正』ですよ。さあ大変だ。
あなたは今日一日、誤字を強制されることになりますよ」。

「そ、そんなばかな。私は社員じゃありません。取材に来ただけだ。
だいたい客に失礼だぞ。こんなおかしなシステムを作るのはけしからん。
シリメツレツだ。わっ、わわっ、尻が縦横十文字に割れた。どうしたんだ」。
「ほら、さっそく誤字が強制された。支離滅裂が『滅裂』になったのですよ」。

さて・・・、皆さんはこんなふうに自分が気づかないまま"誤字"や"当て字"を
使っていることはありませんか?

パソコンの普及に伴い、キーをポンと叩けば漢字が出てくるのをいいことに、
よく考えもせず無頓着に漢字を使ってしまいがちですよね。

気をつけなくちゃ、ねっ。

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人生は一度きり

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我が子に何を求め、どうなってくれることを期待するのか・・・。
僕としては「子どもには子どもの人生がある」という点で、
基本的に「好きなようにやれ」という立場を貫きたい。

「ここの学校の方がいいわよ」、
「世間体ではこっちの会社の方が」、
「彼の方が勤めも安定してるし、いいんじゃない」なんて、
学校への入学から始まり、上級学校への進学、
塾の先生の善し悪し、就職のこと・・・などなど、
最近、必要以上に口出しをする親が多すぎると思う。

自分で転んで、怪我をするからこそ、
その痛みを通して危なさを覚えるんだし、
受験に失敗してこそ、自分の甘さや勉強不足を理解し、
今度こそはという目標が出てくるわけで、
失敗する前にあれこれと「よりよき道」(あくまでも親の考えで・・・だが)
を与えていては、自分では何も考えられない人間になっていくだけだ。

何もかも子どもの好き勝手に・・・ということではないが、
もっと好きなように、自由な選択の場を与ってやってほしいと思う。


 『たくましい息子よ』   (毎日新聞)

九州の過疎地出身で、中卒の私は今も小さな会社で黙々と働き続けている。
機械化が進んだとはいえ、厳しい肉体労働はさして変わらず、
疲れた体にむち打って明日へとつなげている。
リストラなど特に不安定な昨今だが、幸い親からもらった健康な体のお陰で
今日までやってこれた。こ
れからどんなことがあっても、またどんな仕事でも死ぬまで働くつもりだ。

子ども3人は私の夢だった大学生活を今年で終えた。
一番下の息子は農業をやりたいと、
今、農業関係の団体や農家で勉強をさせていただきながら、
就農の準備をしている。
そんな息子に地下足袋と麦わら帽子をプレゼントした。
数日おきに「ただ今」と、真っ黒に日焼けした顔で野菜をぶら下げて帰ってくる。

私が子どもたちに対して描いていた職業とは随分かけ離れている。
「ま、いいか」。充実した表情でうまそうに夕食を食べている姿を見ていると、
農家でもらってきた、とれたての新鮮な野菜のみずみずしい青さと同じく、
息子はとても生き生きしている。
それぞれにたくましく生きる子どもたちを全力で応援しよう、と妻に心で呼びかける。


 『結婚イコール幸福か』   (京都新聞)

幸か不幸か、娘と私の幸福観は一致している。
女性にとって必ずしも「結婚=幸福」とは限らないという点で。

親の育て方のせいなのか、27歳の娘の結婚観はクールだ。
私たち夫婦の関係や友人たちの恋愛の実態を冷静に眺めているように見える。
そしてまた、母世代にだって仕事がある。
どちらかといえば「孫より仕事」派の私は正直なところ、
孫のために今の仕事を奪われるのはたまらない。

「結婚」を否定するわけではない。
だが、女性も一人の人間として結婚以前にまず経済的基盤を持ち、
かなうならばやりがいのある仕事をめざしてほしいと、
自らの後悔を込めて母親の私は望んでいる。

十人いれば十人の生き方がある。
多様な価値観を認めようとしない世間の風潮に私自身も悩んできた。
結婚もよし、シングルもよし、それはあなたの人生なのだから。
ただ、娘には言っている。自分で選んだ生き方のツケは自分で支払いなさいよと。

しょせん、母世代は子世代を見守るしかない。
「二人でいて孤独」は「一人でいて孤独」より一層さびしさが深いのではないのだろうか。
人の一生なんて山あり谷ありだ。
いつ何がおきるかわからない。四十路を過ぎて今の仕事と巡りあった私は思う。

娘よ、人生は一度きり。
「幸福」とは本人の心が決めるものなのだから。 

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今から7年前・・・
オーストラリアでホームステイをすることになって、
ホストファミリーに送る「自己紹介英文レター」を書くことになった。

Hello!!  My name is Nagatoshi Yasui.
I am *** years old. 
I am a Science teacher in *** High School.
I have been teaching Science at this school for 18 years.

There are six people in my family: my father, wife,
two daughters, son, and me.
My father (name) is retired.
He is farmer and raises rice.
My wife (name) works hard in the house to make our life comfortable.
And she is working part-time as a baker.
My elder daughter (name) is a junior high school student.
My younger daughter (name) and a son (name)
are an elementary school students.
They are very lively and like very much to play the piano.
And a dog called “Leon” and four hamsters
are also members of our family.

I like very much to run and be doing jogging after a job
ended every day.
I am participating in a race repeatedly.
I am sometimes participating in the races of half and full marathon.
And I like listening to guitar music.

I like to drink beer. I drink beer every day.
My favorite brand is “Asahi Super Dry”.
And I like to drink coffee.
I use my computer for work and fun.
I am sending and receiving many e-mail every day.
It is very convenient.
I send messages to my friends.
And I keep in  touch with business associates.
My e-mail address is ***@***.***.
Please tell it to me, if you have the address of e-mail.

I like study English.  However, I cannot speak English well yet.
I think that I want to study many cases about English conversation
with the Australia visit in this time.
I am looking very much forward to meeting you, your family
and your school students.

この手紙が功を奏したのかどうか定かではないが、
無事にホームステイが終わり、体験記と一緒にこの手紙をホームページで紹介した。

すると・・・、しばらくしてこんなメールが届いた。

初めまして、伊藤と申します。
「かかってこい!英会話」という英会話をテーマにしたページを運営しています。
英語関係のHPを探しているうちに、そちらのページに辿り着いたのですが、
読んでいるうちに興味を覚え、色々拝見させて頂きました。

とても面白いですね。特にコラムには深い共感を覚えました。
私のHPでも紹介させて頂きたいと考えているのですが、
相互リンクをお願いできないでしょうか? 宜しくお願い致します。

ここまでは、別にどうってことナイ(ありがたい話しで、スゴク嬉しいのは別にして)のだが、
続くこの文に心が揺らいだ・・・。

P.S.
「英語は友達」(上の自己紹介レターを掲載したページ)のなかで、
自己紹介をするときに、「英語はあまりうまく話せません」というのを
「I cannot speak English well」と書かれていましたが、
「I do not speak English well」のほうが適切です。
「Cannot」だと、何か身体的な障害があって話すことが出来ない、というニュアンス
になってしまいます。

英語の「can」は可能・不可能をはっきりさせるコトバなので、
「うまくできない」という意味を表現したいときには避けたほうが良いコトバです。

英語を話すときには、あまり細かいことは気にしないほうがよいとは思うのですが、
相手にうっかり「Can you speak Japanese?」などと尋ねるとかなり失礼になりますので、
覚えておいたほうがいいかと思い、ご指摘させて頂きました。
お役に立てれば幸いです。

でも、全体的にキレイな分かりやすい英語で素晴らしいです。
これならば、しっかりと相手に伝わると思います。
これからも頑張ってください。

どうよどうよ、こんなあたたかい、しかも的確なアドバイスをいただいたら、
もう一回やってみようか?って気になるじゃない!
これぞまさしく「教育(的な支援)」でしょ。

というわけで、すっかり伊藤さんにハマってしまい、
当時、英語を勉強するのにすごく励みになったことを覚えている。

昨日のブログ「勉強することの大切さ」に対するLUNAさんのコメントにも、
”生きていく過程は全て勉強と思っている私。
人に「習う」事を素直に受け入れる心ってものすごく大事だと思います”とある。

忘れかけていたことを、今更ながら思い出したような気分だ。

Bear in mind that if you have enthusiasm,
you can succeed in anything.

訳すと・・・

やる気さえあれば何事においても成功できる、ということを心に留めておきなさい。

人気漫画「ドラゴン桜」の英語講師のモデルとなったカリスマ英語講師
竹岡広信先生の著書『ドラゴン・イングリッシュ基本英文100』の
"100番目"に出てくる英文だ。

たった100文ごときで弱音を吐くな!
やる気を見せろ!

Be enthusiastic !

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「たぶん」という意味の英単語を辞書で引くと、
probably, possibly, perhaps, maybe とある。

以前、アメリカの学生から聞いた話だと、

probably は可能性が大きくて、大いにありそうなこと
(つまり「たぶん~できるだろう」)を示し、
possibly は可能性はあるが、
確実性は少ないことを示すやや格式ばった語、
perhapsmaybe は、
これとほぼ同じ意味の口語的な表現
(つまり「たぶん~できないだろう」)ということらしい。

同じ意味を表す英単語の使い分けは、日本人にとってなかなか難しい。
ちょっとしたニュアンスの違いが、大きな意味の違いになる。

こういったことは、やはり経験的に学んでいくしかないのだろうか・・・。

2日前のブログ「英語が話せるおじさんになりたい」にメッセージを下さった、
オールレーズンさん、LUNAさん、baijing さんの声にも共通することだが、
僕自身・・・この歳になって、改めて勉強することの大切さを感じている。
英語を筆頭に、歴史や文化など、
もっともっと豊富な知識が自分にあればと思えてならない。

どうして、高校~大学と、好きなだけ勉強できる時代に
もっとやっておかなかったのかと、後悔することしきり・・・。

でも、本当の意味での勉強はこれからだと言ってくれる人もいる。
自分が必要とする知識、それを勉強するための方法など、
学生時代より「経験的充実度?」が高いぶん、
今の方が効果が上がるかもしれない・・・。

そうだ、今からでも遅くない! 頑張ってやろう!
10年後、いや5年後の僕を見てくれよなっ!!

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今日の午後、中学1年生の総合学習で、近くの「生きものの森」に出かけた。

総合学習060512_2内容は理科と国語の合同授業で、
最初の、理科「生物観察”見つけよう”」では、
森の中にある植物を観察し、スケッチするという
課題が出された。

どのようなところに育っていたか、特徴は・・・など、
気がついたことを各自プリントにまとめるもので、
森の中をあちこち探し回り、「これは!」と思った植物を見つけると、さっそく観察開始。
ルーペを用いて詳しく調べたり、においをかいでみたりと、なかなか興味津々のようす。

総合学習060512_1続いては、国語の「”のはらうた”づくり」。
生きものの森にいる中で感じた<自然>を
詩にまとめるというもので、
五感をフルにはたらかせて課題に取り組んだ。

教室の中とは違う開放的な雰囲気の中、
歓声を上げながら大いに楽しむ姿がとても印象的で、
やっぱり自然はいいなぁ~と、改めて感じさせられた。

生徒の作品や感想など、今日のまとめができたら、またここで紹介したいと思う。

僕が作った”のはらうた”もあるので、お楽しみに~♪

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ごくごく、たまに・・・このブログやホームページに英語に関する話題が登場する。
でも、僕は「英語」の先生ではない。

中学校1年生の時、最初は「英語」が一番大好きな科目だった。
でも、しだいに苦痛になり、気がついたら一番嫌いな科目になっていた。
もちろん成績もそれに合わせてしだいに下降・・・。
高校、大学と上級学校に進むにつれ、いつの間にか一番苦手な科目になり、
成績全体の足を引っ張るようになった。

そんな僕が、マラソンを始めたのと、ほぼ時を同じくして「英語」の学習に目覚めた。
何度か海外に行く機会に恵まれたことが一番大きいが、
このままではいけないと、強く感じた。
それまでは、日本のことさえ十分に知らないのに、何が外国だ。
日本語さえできればいいじゃないか。
そんな気持ちが大勢を占め、英語の必要性がないのをいいことに、
英語を拒絶することを正当化していた。

でも、現実は違った。
外から日本を眺めてみると、世界の中に置かれている日本の立場がすごくよくわかる。
日本だけ、自分たちだけで世界がまわっているような気になっているのは間違いなのだ。
日本のことだけを考えているようでは、世界では通用しない。
もっともっと世界に目を向け、世界の中に飛び出していって、
世界的な視点でいろいろなことを考えることが必要なのだ。

そのためには、外国のことを十分に理解し、
Communicationを取らなければならない。
その時に必要なものは何か・・・。
まず第一に、Communicationの手段=言葉。
そう・・・
さしあたっては英語だ。

英語が分かるようになりたい、話せるようになりたい・・・。
それが僕の大きな目標。
いつかはきっと外国人と普通にしゃべれるようになるぞ・・・っていう「夢」になった。

でも、これがなかなか難しい。
一番苦手な科目だった英語が、そう簡単に克服できるわけがない。
まず単語を知らない。致命的だ。
そして、文法がいまいち、よくわからない。
困った。そんな中で、聞く方は、時間をかければ少しずつ何とかなるのがわかってきた。
しだいに「英語の耳」になっていくのが感じられ、聞き取れると楽しくなってきた。
そして、もっとわかりたいと単語の意味を覚えようと努力するようになった。
また、聞いたことをそのまま話す練習も、恥ずかしがらずにできるようになってきた。

まだまだ発展途上で、初級者レベルから脱出できてはいないが、
いつかきっと・・・、英語が話せるおじさんになって、
どんどん世界の人と友だちづきあいをするぞ!
そんな夢の実現に向けて、これからも少しずつ頑張っていきたい!

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滋賀県・信楽といえば、”タヌキ”の焼き物。
店の前に飾っておくと商売が繁盛するという言い伝えがある。

別に商売に関係しているわけではないが、
実は、我が家には何匹ものタヌキたちが住んで?いる。

玄関から庭にかけて下に紹介した3匹と2組がいて、
家の中にもあと何匹かいる。
それぞれ雰囲気が違い、顔の表情もいろいろだが、どれも愛嬌満点だ。

一番デカイやつは、1990年の夏、信楽まで行って買い求めたもの。
当時乗っていたランクル(ロクマル)の後部座席を倒して乗せ、
家まで運んで帰ってきた。
今では、すっかり馴染み、我が家にはなくてはならない存在になっている。

         

それにしても、これだけいるんだから、商売繁盛・・・。
そう、もう少し多くの”天下の回りもの”が、 我が家に回ってきても
よさそうなんだけどなあ~。

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いきなり物騒なタイトルをつけてしまいましたが、
毎日のようにニュースで報じられている悲惨な事件・事故のことを思うと、
自分だっていつ何時そういう目に遭うかもわからない・・・という気がしてきます。

もちろん、そんなことが現実にあったら大変なことですが、
もし、仮に、「あなたは明日の朝、死ぬのですよ」と言われたら、
さて・・・みなさんはどうするでしょうか。

禅と日常のかかわりをとらえ、第98回芥川賞を受賞した三浦清宏さんは、
発表後の記者会見でこのことを引き合いに出し、
私なら黙って『飯を食う』とおっしゃっています。

「黙って~する」という言い方そのものが禅的だということだそうですが、
要するに飯を食い、眠り、朝起きたら顔を洗って「おはようございます」と言う・・・。
つまり、朝、死のうが死ぬまいが、やることは同じだというわけです。
逆に言えば、人間、いつ死んでもいいように生きていなければダメなんだ
ということでしょう。

なるほど、そうに違いありません。
でも、そんな完璧な生き方って、いったいどんな生き方なんでしょう。

さらに、三浦さんの話は続きます。

いつ死んでもいいように生きるということは、
何も特別なことをするわけじゃないのです。
会社員は会社の仕事をし、商売人は商品を売り、農家は田畑を耕し、
学生は勉強をする。そういうことなのです。
でも、一生懸命やらなければなりません。いつも一生懸命に。
その時だけ一生懸命になっても仕方ありませんから・・・。

人間は、急に価値のある仕事ができるということはありません。
一夜のうちに、普通の人間が英雄や聖人になるということは無理な話で、
思いがけない成功があったとしても、それは今までの水面下の努力の蓄積
によるものだと思います。
私の言いたいことは、日常生活を一生懸命生きるということです。
いくら一生懸命生きていても、悔いは出てきます。
人間、悔いのない生活などできるはずありませんから・・・。
いつも失敗し、後悔し、迷いながら生きていくのが人間なのですから・・・。

なるほど、言われてみればその通り、納得のいく話です。
要するに、自分の“生きる姿勢”の問題だということですね。
結果のみを考えて行動するのではなく、どういう結果になるにせよ、
とにかく一生懸命に取り組むこと。
それが大切だとおっしゃっているわけです。

さらに、最後にこう言って三浦さんの話は終わりました。

“昨日できなかったことが、今日できるようになった喜び”、
それを重ねていくだけなんです。
それを目標に生きていくだけなんです。
突然、死によってそれが中断されるかもしれませんが、
それは努力とは関係のないことです。
人間、死ぬときは死ぬ。
ただ、その時まで、いかに迷い、悔やめども、
とにかく一生懸命努力を続けることです・・・。

どうでしょう。わかってもらえたでしょうか。
とくに最後の『昨日できなかった~を重ねていくだけ』っていう考え方。
単純なようだけど、すごくいいと思いませんか?

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学校=勉強をするところ。
勉強のよくできる子=成績の良い子。
勉強のできない子=ダメな子。
いい高校=進学率の高い高校。
いい会社、いい家・・・。

学校に限らず、物事の良し悪しを決めるのに、
私たちはいったい何を基準にしているのでしょう。

人それぞれに“個性”があると言いながら、
それをどれだけ大事にしているのでしょう。
いろいろな人がいてこそ、お互いに磨き合い、高め合うことができ、
ひいてはそれが成長へとつながっていくはずなのに、
どうして“みんな同じじゃないとダメ”なんていう風潮がはびこるのでしょう。

そうでないと安心できない? そうかもしれません。
でも、そういう世の中にしているのは、私たち自身なのではないでしょうか。

植物の花は、すべてが桜のように春に咲くとは限りません。
夾竹桃のように真夏に咲く花もあれば、菊のように夏の暑さに耐えた後咲く花もあり、
椿や梅のように冬に咲く花もあります。

人間だって同じじゃないでしょうか。
その人の持つ“季節”になれば、必ず花開くものなんだと思えないでしょうか。

もちろん、ただ漠然と待っているだけでは、人間の花は咲きません。
咲くための努力が必要です。
すべての花が、来るべき開花に備えて、つぼみの中で着々と花芽を育てていくように、
人間にも、花(=めざすもの)に向かってのたゆまない努力の積み重ねが必要です。
そして、その努力が実った時、花が咲く。

僕はそんなふうに思っているのですが、みなさんはどうでしょう。

しかし、今の世の中を見渡してみると、どう考えても、社会は人間をすべて同じ花だと
決めつけすぎているように思えてなりません。
さらに、みなさん自身までもが、まだ社会という荒波に足を踏み入れていないうちから、
同じ時期に同じような花が咲かないと落ち込んだり、
極端な場合は「どうせダメなんだし・・・」と、
すべての希望がなくなってしまったかのように思ってしまうようです。

第一、花にしても、色や形でその存在を認められるものもあれば、
香りで生きる花もあります。
どんな花にせよ、その存在価値や存在理由は必ずあります。
誰かがどこかで必要としているのです。

稲の花は、誰もじっくり見たりしないでしょうが、お米になると、
その存在は嫌でも知られるものです。
モミジやカエデは、花も実も人の気をひくことはありませんが、
秋になり紅葉として色づいた時の美しさは、
紅葉狩りという味わいのある言葉まで生み出したほど、昔から人々に愛されています。
雪をかぶり、一段と美しさを増す松、食する喜びまで人に与える竹・・・など、
本当にさまざまです。
そして、その“さまざまであること”が、花にとってのすばらしさであり、
同様に私たち人間にとっての良さであり、すばらしさなんだと思います。

「勉強だけが学校じゃない・・・」。
もちろん、勉強あっての学校だということを踏まえたうえで、
この言葉が真に生きる学校生活が送れたら、どんなにステキなことでしょうね。

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広島で、小中学校の先生として活躍し、定年退職後は英語を主とした私塾を開き、
児童の学習力強化と人間形成に情熱を注いだ一人の先生が、
ある本にこんなことを書いておられる。

私どもの周囲には、その人と話していると何となく気持ちが良く、いつまでも話したくなり、
話した後も気持ちがスカッとして心が清められるような人がいる。
こういう部類の人は、数少ないが、私は”香りある人”と名付けたい。

人間がこの世に生を受けた以上、このような人になりたいと願わぬ者がいるであろうか。
しかし、現実はその逆の人と、その中間の人がほとんどである。

”香りある人”とは、一体どんな人をいうのであろうか。
私は自分の長い人生経験からして、次のような人をいうのではなかろうかと思う。

 (1) 顔が柔和で、礼儀正しく親切な人。
 (2) 人の話をよく聞き、自分の意見を述べて話を盛り上げ、相手を満足させる人。
 (3) 自己中心的でなく、人の嫌がる言動はしない。

これに反し、その人のそばにいると、何となく嫌になり、一刻も早く別れたくなる人がいる。
次のような人は、それにあたるのではなかろうか。

 (1) 顔の相が悪く、人に暗い感じを与える人。
 (2) 自分の激しい感情を露骨に出し、反省の足りない人。
 (3) 損得でものを見る、卑しい人。
 (4) 自己中心の言動をする、我の強い人。

大部分の人は、その中間であろう。
”香りある人”になることは、なかなか容易ではなく、一朝一夕になり得るものではない。
長い間の研鎖と努力によってこそ、そのような人物になれるのである。

なるほど、読んでみれば何のことはない。どれも、ごく当たり前のことだ。
でも、最後の方にも書かれているとおり、これは口で言うほど簡単なことではない。

ふだんの生活の中で、私たちが深く考えずにやり過ごしてしまっていることが、
どれほどあるだろう。その時、まわりにいる人たちに嫌な思いをさせ、
もしかすると、人を傷つける結果になってしまったことがあったかもしれないのに、
それを少しも意識しないまま、平然としていることはないだろうか。

もちろん、こうしなければならない、当然こうあるべきだということは、
誰もがわかっているに違いない。
でも、現実の生活の中では、自分の弱い部分や身勝手な部分が顔を出し、
その理屈がどこかへ追いやられ、気がつけば「しまった」ということになってしまう。

そんなことではいけない。”香りある人”にならなければ・・・。
でも、どうしたらそうなれるのだろう・・・。

残念ながら、その特効薬はない。

ただ、日頃から常に自分の言動を振り返り、ささいなことでも疎かにしないようにする・・・。
その心がけを積み重ねていくだけなんだ。

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ゴールデンウィーク終盤。
Uターンだの何だのと世間は騒がしい?が、受験生に休みはない。
今月は毎週のように「模試」が控えていて、今日がその第一幕・・・。
生徒たちは、朝から机に向かって頑張っている。

さて、東京都立石神井高校を最後に、定年で教壇を降りられた社会科教師、
門脇一生さんが、在職中にホームルームや授業で生徒に配っていた文章の中に、
勉強についてのいくつかの分析、感想がある。

「勉強ほど正直な世界はない」で締めくくられたこの断章の中から、
今、受験という壁に立ち向かっている皆さんに、いくつかの”方策”を贈ろう。

勉強の「しかた」がわからないから勉強できない、ということをよく聞くが、
勉強しないから勉強できない、というのが真相に近いのではないかと思う。
泳がないで泳ぎ方を知ることはできない。
くり返して泳いでいるうちに、泳ぎ方を覚えるのである。
たとえ、人から勉強の「しかた」を教えてもらっても、
それを本当に自分のものにするためには、「しかた」のわからない人が
まずやみくもに勉強するのと同じ、暗中模索的な試行錯誤の過程がいる。
”幾何学に王道なし”とユークリッド(数学者)は言ったそうだが、
英語でも国語でも同じであって、まずぶつからなければならぬ。
そして、その一角がまがりなりにも自分のものになれば、
わずかでも確実な勉強の展望が開けるのである。

勉強のうえの努力が報いられないことは、決してない。
”労多くして功少なし”ということもなければ、”労少なくして功多し”ということもない。
勉強の世界は実に正直である。
これは、勉強の努力と試験の点数とが正確に比例するという意味ではないが、
しかし、長期的にたとえば数か月なり一年なりの時間の単位でいえば、
やはり、かなり正確な対応関係があるとは言える。
これは勉強だけでなく、いろいろのことについてもいえることだが、
「まかぬ種は生えぬ」であり、
人は、しょせん、まいたものしか刈り取ることはできないのである。
「努力しているけど、ちっともできるようになりません」と嘆くなかれ。
はらった努力は、知らぬところで実を結びつつある。
それを信じて、いまの勉強を続けるべきだ。
そうすれば、やがてその成果を自分の目で見ることになるだろう。

勉強とは、未知の対象に挑む努力そのものの中にある。
わかった、わからなかったは、その結果に過ぎない。
一生懸命わかろうと努力したが、ついにわからなかったという場合、
はらわれた努力に厳密に比例して学力が成長する。
だから、たとえば解答のない問題集(解答が別綴になったものはそれを見ずに)、
注釈や訳のついていない英語の文章などでも、真剣に取り組めば、
それなりに学力をつけることができるものである。
教科書や参考書を勉強する場合、安易に解答を参照することは
絶対といっていいくらい禁物である。
くどいようだが、わかることが勉強になるのではなく、
わかることをめざして努力することが勉強になる。

人格(人柄、個性)は、一人の人間において有機的な一全体をなしており、
勉強のしかたは、その人格全体の集中的表現であるといえる。
勉強は、勉強以外の生活面、たとえば金銭の使い方、服装、交友、時間厳守の程度、
礼儀、言葉遣いなどと複雑に関係している。
この関係は、勉強のできるものは人間的に立派であるというような、
直線的な単純なものじゃ、決してない。
さりとて、勉強と人間の立派さが無関係であるわけもない。
勉強によってできる「人格」の”ある部分”と、勉強以外の営みによってつくられる
「人格」の”他の部分”とがあって、両者は互いに浸透してひとつの人格を形成している。
このことを認めたうえで、勉強は人格をつくる推進力になり得るということが、
やはりいえると思う。

ちょっと長くなったが、さて・・・どんなことを感じただろう。

一口に「勉強」といっても、学校の勉強だけではないし、
その意義や方法も、人によって違う。
しかし、自分を磨き高めるために、”避けて通れない道”であることは確かだ。

ガンバレ!

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家から、まっすぐ琵琶湖に向かっていくと、
「美浜緑地公園」がある。

Golden Week や夏の土日になると、
家族連れや若者グループがドッと押し寄せ、
歩道に車があふれるほどに賑わっている。

もともと、キャンプ等が禁止されている区域のはずなんだけど、
湖周道路沿いで、トイレや水道が完備され、駐車場はもちろん無料。
とにかく便利この上ない立地条件のため、堂々とキャンプ&バーベキューが
行われている。

今日もジョギングの途中、ここを通った。
たくさんのテントが立ち並び、あちこちからいい匂いが漂ってきた。
若者のグループ、家族連れ、なかにはカップルで仲良くバーベキュー
なんて人たちもいて、何ともうらやましい限りだった。

こういった湖岸緑地は琵琶湖周辺にたくさんあるが、マイアミ浜など、
ある程度が設備の整っているところは、駐車場が有料だったり、
テントを張るのにお金を取られたりする。
ここは、そういった有料のところと比べても遜色のない設備が整っている
にも関わらず、無料!
一度訪れた人が何度も足を運ぶのは言うまでもない。

でも、ゴミの後始末に関しては、
どうもマナーが悪い。

町が、県(今年からは民間になった)から
委託されて、この公園の管理を行っており、
老人会や子供会などが定期的に掃除を
しているが、休み明けともなると、ゴミは散乱、
あちこちに焼け焦げた跡があり、遊んだ後の始末が不十分なまま。

自分たちは、楽しんでハイさようならでいいだろうが、
ここを生活圏の一部にしているボクたちにとっては、すごく迷惑な話だ。

来てくれるのはいいが、もう少しマナーを守ってほしいってもんだ! 

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一時期、パソコン訪問サポートの仕事をしていた関係で、
ちょっとした”お助けマン”によばれることがある。

新しいパソコンとルーターを買って、インターネット接続を
自分でやろうと思ったんだけど、どうも不安で・・・。

今日は、そんな声に応えて、近江八幡へでかけることになった。

来てくれたら「あれも聞こう、これも見てもらおう」と、準備万端だったらしく、
着くやいなや、紙に書き留めた”やって欲しいこと”リストをもとに、
「まずこれをしてもらって、次にこれ・・・」、「この設定もお願いね・・・」と迫られ(?)、
一瞬たじろぐものの、そこは平常心で明るく「ハイ、わかりました~」。

さっそく作業に取りかかり、ほどなく終了。

すると、「あっ、それから・・・これもやってもらっていいかなぁ~」

えっ? まだやらせる気かいな (えぇい、乗りかかった船だ・・・)

そうなるとこちらも、できるだけのことはしなくちゃという気持ちになる。
期待に応えようと、実際にやりながら何度も繰り返し説明したり、
気がつけば、あっというまに時間が過ぎていた。

でも、こんなことで喜んでもらえるんだったら、いくらでもするで~。

道具として使ってこそナンボのパソコン。
身近なツールとして役立ててもらえるよう、その魅力を伝えられたら嬉しい。

パソコンを仲立ちにした、人との「ふれあい」。
これがまた、結構楽しかったりして・・・エヘヘ。

時はゴールデンウィーク。
こんないい天気に走らなくてどうするの・・・ってわけで、久しぶりのランニング。

今日走ったのは自宅周辺のコースなんだけど、明日はちょっと足を延ばして、
荒神山ランニングへ GO!

 ☆曽根沼湖岸緑地公園~宇曽川バイコロジー自転車道
    ~参道日夏線~荒神山山頂  (往復11.5km、完全舗装路)

  平坦路と勾配路が半分ずつのこのコースは、曽根沼湖岸緑地公園をスタート、
  公園内を横切った後、荒神山(標高262m)北側山裾のサイクリング道を走り、
  日夏側の参道(2.8km:高低差約180m)を山頂めざして登る。
  この参道には、100mおきに距離表示があって、タイムの確認が簡単にできる。
  また、コースからは外れるが、途中にある千手寺参道の石段を上り下りして、
  さらに足腰を鍛えるメニューを入れることも可能。
  山頂で折り返し、同じコースを引き返す。
  参道を一気に駆け下りた後、サイクリング道をスタート地点まで戻る。
  片道約5.8km。上り下りがあって、足腰を鍛えるには打ってつけのコースだ。

     曽根沼湖岸緑地公園   
        ↓
     公園内の散歩道   
        ↓
     宇曽川自転車道   
        ↓
     参道日夏線入り口    
        ↓
     参道距離表示板      
        ↓
     千手寺の参道石段   
        ↓
     中間点距離表示  
        ↓
     間もなく山頂   
        ↓
     山頂からの眺め   
      

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新学期が始まって、やがて1か月が経とうとしている。
新しい環境で、どんな人と出会い、どんな時間を過ごしているのだろう。

この時期になると、決まって思い出す話がある。
以前勤めていた学校で、同僚の国語の先生から聞いた、こんな思い出話だ。


先日、大学時代の友人から電話があった。「来年2月に結婚する」ということだった。 
私が大学時代を過ごしたのは名古屋。それまで何の馴染みもない土地。
おまけに、親元を離れての生活。不安、淋しさ、心細さ・・・。
数々のマイナス感情を抱えながら、大学生活がスタートした。

入学式翌日のオリエンテーション。
自己紹介の時、「滋賀県から来ました」と言った途端、「おお・・・」というどよめき。
名古屋という土地柄上、学生の大半は愛知県、岐阜県、三重県、静岡県といった
東海地方の出身者。まるで外国人を見るような目で見られ、
その視線をはねのけようと、笑顔をつくって自己紹介を終えた。
マイナス感情が沸々とわきあがってきた時、私の前に座っていた子が、
私の方を向き、「滋賀県のどこ?」と笑顔で聞いた。
「長浜!」と、その優しい笑顔につられ、私も笑顔で答えた。
「長浜? 私のおばあちゃん、びわ町の人!」と意外な答え。
それからしばらく、私の地元の話で盛り上がった。

マイナス感情が、ひとつ、プラス感情に変わった。

それ以来、私は、その子に幾つマイナス感情をプラス感情に変えてもらったことか。
例えば、言葉ひとつにしても、関西と名古屋では全然違う。
私が、今まで使ってきた言葉で話した時、名古屋の子が「へん!」とか
「そんな言葉、使わない」とか言った場合、
その子が「関西では、そうやって言うよ」と口添えしてくれた。
その子の一言で、名古屋の子も私の言葉に納得してくれた。
私と名古屋の子をつなぐパイプの役目を、その子は果たしてくれた。
もし、その子と出会っていなければ、大学時代を無事に過ごせたかどうか・・・。
その子のおかげで、大学時代が送れたと言っても過言ではない。

「来年2月に結婚する」と電話をくれた友人こそが“その子”。

私が結婚するわけではないが、私自身のことのように、いや、それ以上に嬉しく、
心から「おめでとう!」と言いたい。
オリエンテーションの日、初めて口をきいた時に見せてくれた、あの優しい笑顔で・・・。


よく、高校から大学にかけての時期に出会った友人は、一生を通じての“親友”になる
といわている。とくに、女の人の場合はその傾向が強いようで、
結婚して、子どもができても、相変わらず付き合いが続いている例を、
僕自身、何人もの卒業生から聞いている。

かけがえのない友人とは、いくら遠くにいても、どれだけ離れていても、
出会った瞬間に気持ちが通じ、リアルタイムで自分の現状を伝えたい相手だと、
彼女は言う。
それだけ自分の心に深く根ざしている大切な人だということだろう。

ある時は自分を励まし、ある時は自分を叱ってくれる。
そんな友人を、みなさんもぜひ見つけてほしい。

ゴールデンウイークの谷間となった今日、
学校はもちろんカレンダー通りなので、休みではない。

すごくいい天気で、関東から西日本にかけての広い地域で「真夏日」となり、
滋賀県内でも各地で気温がぐんぐん上がり、最高気温は彦根市で29.5度、
大津市でも27.5度に達し、7月並みの暖かさとなったとのこと。

まさに、太陽のおかげ? といったところだろうか・・・

ところで、2001年から2004年にかけて、全国8都道府県の小・中学校、
約1700人に行ったアンケートで、こんな結果が出たのをご存じだろうか?

小学生の4割が「太陽は地球の周りを回っている」と思い、
3割が太陽の沈む方向を答えられない。

「地球は太陽の周りを回っている」と、正解したのは56%、
42%は「太陽は地球の周りを回っている」を選んだ。
また、太陽が沈む方向については、「西」と答えた子供は73%で、
残りの割近くが正確に答えることができなかったとのこと。

ガッツ石松氏は、太陽が昇る方向を「右」だと言ったそうだけれど・・・
天才バカボンによると、「西」から昇ったお日さまが「東」へ沈むらしいけれど・・・

こんな状況を見せられると、どうもわれわれ人間が、
しだいに"自然"とかけ離れたところで生きているような、そんな気がしてならない。

自然に触れ合ってこそ生きられるのが人間だ。
「生きる営み=自然との共存」だってことを、五感で味わいながら生活したいものだ。