生徒中心の学校=楽しい学校

言葉だけを聞くと誤解されるかもしれないが、学校は「楽しいところ」でなければいけないと思っている。生徒が「いきいきと活動する」姿が見られないなんて、学校じゃない。いきいきとした活動があるからこそ、そこに学校の魅力が生まれ、学校が生徒にとって存在価値のあるものになっていくのだ。

4月、新入生が希望を胸に入学してくる。中には、意に反してその学校本校に通うことになった生徒もいるだろうが、大多数はいきいきとした表情をしている。上級生とは明らかに違う、期待感に満ちた顔だ。

それが、どうだろう。日が経つにつれて、毎日、ただ何となく学校に来て、言われたことだけを適当に済ませ、楽しみや満足感は学校の外に求める・・・という生徒が多くなってくる。

どうして、こうなってしまうのか。決して、その学校に通っている生徒が、みんな最初からそんなふうになるような生徒だというわけではないはずだ。やはり、その学校、すなわちそこで働く教師がそういう生徒にしてしまっているだ。

学校の体制、生徒への対応、授業や課外活動、学校行事・・・その他諸々の要素が、総じて「教師の都合」で進められ、「生徒中心になっていない」ことが原因だろう。

生徒には「主体性を持て」と言いながら、生徒が自分の意に添わないことをしたとすると、とたんに「それはダメだ」と否定する先生。生徒が一生懸命に考えた結果だとしても、そういうことは一切お構いなしで、とにかく自分の考えや指導に合わなかったらダメなのだ。

それを「教師の都合」と言わずして、何と言えばいいのか。

結局、それは自分の予想を超えるようなこと、自分の処理できる範疇以外のことには、対応する自信がないので「関わりたくない」という、教師の自分勝手な逃げの姿勢に他ならない。

ふだん生徒に「物事に真正面からぶつかれ」「自立せよ」と言っておきながら、現実は自分が真っ先にそれを破っているだ。面倒なことは嫌、とにかく平穏無事に過ごせればいい・・・。

敏感な生徒が、そんな教師の姿勢を見破らないはずがない。

誰が考えても、生徒がすべて教師の都合のいいように動いてくれないことは、わかりきっている。予想もしないようなことが起こるのは当たり前だ。生徒の成長というのは、そういったさまざまな活動の中で生じる出来事に対して、教師と一緒に真剣に取り組んでこそ、初めて実現されることなのだ。それを受け止めようともせず、教師が一番に逃げて、
いったいどうするのか。

タイトルの「楽しい学校=生徒中心の学校」というのは、言葉を変えれば、「ロマンを求めて人間らしく生きたいという生徒の要求に学校が応える」ということだ。生徒はみんな「いいものに出会いたい」「頑張って、よくなろう」とする気持ちを持っている。それを如何に引きだし、受けとめ、具体化して返してやるかが教師の努めであり、学校の役割だ。

生徒を自分の操り人形のようにとらえ、上段に構えて「してやっているんだ」というような接し方では、いくら口先だけで「心」を説いても無意味だ。荒んだ心を植え付ける教育にしかなっていない。生徒に寄り添い、同じ方向を見つめて「先生と一緒によくなろうね」という気持ちを生徒に感じさせるような接し方を心がけなければならない。

もちろん、これは授業であっても、課外活動であっても同じことだ。何も特別な関わり合いの時だけのことではない。教科の学習を通して「心」を教えることだってできる。

僕自身、今まで、どちらかといえば教科の内容より、むしろ心を教えるべきだという観点に立って授業をしてきた立場なので、より一層それを思う。


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