教師自らが目的をめざし「変わる」ことが絶対条件!

2年ほど前、これからの学校づくりに関して書いた一文(あくまでも個人的な分析)がある。

女子高を共学化するという大きな変革が軌道に乗り、生活指導や教科指導、進路指導、クラブ指導など、学校全体に流れる雰囲気が前向きで明るくなってきた。事実、授業を乱したり、問題行動を繰り返したりするような生徒がしだいに減少し、見た目に「落ちついた、いい学校」になり、スポーツ面でも大きな成果を上げてきた。同時に、地域や保護者からも、魅力ある学校になってきたという評価が数多く寄せられるようになってきた。

そういった見た目の変化とは裏腹に、それを牽引する教師集団の組織化が不十分であったため、日々の教育活動のほとんどを当時のリーダー(校長)ひとりが動かしていくという、トップダウン形式での運営が続いた。その結果、リーダーに頼ることに慣れた教師の感性は鈍り、「必要なときには指示が来る」「間違っていたら直してもらえる」といった《指示待ち》スタイルが定着、本来、自分がなすべき仕事を見失わせる結果となった。

これではいけないと、数年前からいろいろな形で教師自らが学校の将来像を考え、組織や運営を見直していこうという動きが起こったものの、《議論して物事を決定し、それを実践、検証していく》というスタイルが身についていなかったため、幹部や経営者側と十分な話し合いを行うだけの継続した議論ができず、その場限りの、危機感を出し合うだけの会議に終始した。その結果、教師としてのあり方、生徒に対する姿勢、あるいは学校そのものの体制や組織、運営といった面で、かなり多くの問題点を見過ごしてきた。

そして、決してお互いに議論しようとしない、声の大きな者の意見が通り、理屈だけが先行するような、言っていることと実際にやっていることが一致しない、そんな教師集団が《その日暮らし》をする現状をつくってしまった。生徒や保護者から見れば、こんな学校に魅力を感じるどころか、何かあれば異議を唱えようとするのは当然のことだ。

もちろん、このような事態になることは、ずいぶん前からある程度危惧されていた。共学化への《一時の夢物語》が、それを気づかせるのを遅らせたと言ってしまえばそれまでだが、結局、教師がいつまでも他人事のように、安易に考えていた結果だろう。「こういう学校にしたいから、自分はこういう点でこう努力するんだ」というプロ意識が、あまりにも希薄だったのではないだろうか。

今、本校の「これからの学校づくり」を考えるとき、まず必要なことは、我々教師の「自らの意識改革(教師の原点に立ち返ること)」をおいて他にない。これを抜きにして、新しい学校は語れない。どんなすばらしい提案でも、それを形にしていくのは教師ひとり一人なのだ。

・・・以上のような前置きをした上で、「主人公は子どもたち。地域のため、生徒のための学校に!」と題して、さまざまな提言を述べた。

今日の放課後、改革プロジェクトについてブレーンと3時間以上議論した。そこで脳裏に浮かんだのが、過去の駄文だった。

  • 生徒に「勉強しろ」という前に、自分が「仕事しろ」
  • 変われという対象は「相手」ではなく「自分自身」
  • 「手間のかかること」をキッチリやれ
  • 自ら「厳しさ」を取り戻せ
  • 「実業」で勝負しろ
  • まず「上の者」が襟を正せ

目標管理が成立するのは、各々が「自律」していればこそだ。自己目標シートも大いにけっこうなことだが、自己管理ができていない段階でそれをすることに、果たしてどれだけの意味があるか。

「何」をするかではなく、「どう」するか。それを考えれば、意味あるものになるのかもしれないが・・・

今まだその段階でないとすれば、「ノルマを与えてやらせること」。モーレツ、コテコテ丸出しで信頼を得るという発想に立つ方が効果的だと考えるが、いかがなものだろう。


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