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人と人との関わり

昨日のブログ・・・

職員室で、たまたま耳にした同僚の話が脳裏に引っかかり、感じるままに綴ってみた。

当然のことなんだけど、日常、目に見える光景ばかりを追っていると、その裏(というか「見えない部分」)に、神経がいかなくなる。ほんとうは、そこまでを俯瞰して捉えなければならないことなのに、表面だけ、その部分だけにココロを奪われ、間違った判断をしてしまう。

配慮、気遣い、思いやり・・・

そうったことも、すべて「物事のとらえ方」と「そこに込める想い」で決まる。周囲への「想い」がなければ始まらないが、いくら想いがあったからといって、「一方的な見方」では善意の押し売りになってしまう。

人と人との関わりって、ホント・・・難しい。

最近、よく考えることの一つに、先生たちの「子どもたちへの関わり方」がある。

いくら「丁寧に」といっても、それはやり過ぎやろ? いくら「指導やから」といっても、それは突き放しすぎじゃない?

先生も人間、子どもたちも人間。気持ちだって、さまざまに揺れる。

その加減が難しい・・・。


寄り添うこと、理解すること・・・

学校で、先生に反抗してばかりの子どもがいる。
・・・家に帰ると、何かにつけて親からきつく言われているらしい。

学校で、友だちをいじめてばかりの子どもがいる。
・・・家に帰ると、お兄ちゃんから一方的に責められているらしい。

学校で、何でも先生がしてくれるのをずっと待っている子どもがいる。
・・・家に帰ると、何から何までお母さんが面倒を見てくれるらしい。

学校で、いつも自分が一番でなきゃ気が済まない子どもがいる。
・・・家に帰ると、兄弟の誰よりも先に自分にことをしてもらえるらしい。

学校で、いつもまわりからどう見られているかを気にする子どもがいる。
・・・家に帰ると、近所の評判ばかりを気にしているお母さんがいるらしい。

学校で、困っている友だちにいつも優しく接してくれる子どもがいる。
・・・家に帰ると、寝たきりのおばあちゃんの世話をすすんでやっているらしい。

学校で、
・・・家に帰ると、

学校で目にする子どもたちの姿を表面的に捉えるだけでは、なぜそうなのか、どうしてそんなことをするのか、わからないことだらけ。

でも、ちょっと深く踏み込んで、家での様子、親や兄弟との関わりを聞くと、雲が晴れたように見えてくるものがある。

「なんだ・・・、そういうことだったのか」

「そりゃ、あんなふうになるのも当然やわ」

気持ちは行動の端々に顔を出す。注意深く観察しなくても、子どもたちの方からサインを出してくる。ちょっと接するだけで、「あれっ、何か変かも?」と思う。

でも、その原因を学校の中だけで探すのは難しい。というより、学校の中だけで探さないほうがいい。

「学校で起こったことやん。原因は学校にあるに決まってる」

「学校で解決しなくてどうするの?」

確かにそういうこともあるだろう。

でも、学校でのいろいろな出来事の多くは、その背景に「家」の存在がある。家でどんな過ごし方をしているか、どんな親子関係なのか、兄弟は? おじいちゃん、おばあちゃんは?

なかなか踏み込めないかもしれない。踏み込んだら最後、とことん付き合うハメになってしまうかもしれない。もしかしたら、自分までボロボロになってしまうかもしれない。でも、子どもたちが学校で見せた姿に、おかしさや疑問を感じるのなら、そこまでいかないとわからないことがたくさんある。

子どもに寄り添うためには、その子の生活に思いを馳せなければいけない。子どもを理解するためには、その子を取り巻く環境を知らなければならない。 学校で子どもを育てるには、家で子どもを育てている親に学ばなければならない。

いいことも、悪いことも・・・


健康第一!!

一人の先生が体調を崩し、4週間の自宅療養が必要になった。もともと身体に不安を抱えている部分があって、年度初めの無理がたたったらしい。

しばらく休養すれば大丈夫だということで、代替教員を手配するには至っていないが、彼(数学科)の担当授業を何人かの先生が分担して受け持つことになり、その分、負担が増えた。

やっぱ「元気なカラダあってのことやな~」と、我が身に置き換え、ドキッとした。

昨夜のこと・・・。セコムラーして帰ったあと、日をまたぐような感じで、日課のBeer&晩ご飯を済ませ、ちょっと仕事をして布団に入ったのが1時半過ぎ。しばらくして、急に下腹が痛くなり、トイレに行くもすぐには治まらず、そのまま我慢。

少し落ち着いたところで、布団に戻り、あとはそのまま朝まで爆睡zzzzz….. 起きたとき、多少お腹に違和感があったものの、特に痛むほどでもなく、「まぁ、いっか。ちょっと疲れてるんやなぁ~」ぐらいの感覚で、普通に朝ご飯を食べ、学校へ。

で、今日一日、多少の疲労感を感じつつも仕事を終え、22時40分にセコムして帰路につく。もちろん、いつものご褒美、Beer!!を飲みつつ晩ご飯を食べて、ちょっとまったりした後、仕事を済ませ・・・

まだちょっと、お腹周りに軽い痛みが残るものの、あとはいつもの日常…..って感じで、ふだん通り過ごしている。

確かに、もう少し早く仕事を切り上げ、カラダを休めなくちゃアカンなぁと思う。疲れが溜まってきているのも事実。もっとも、物事を楽観的に見る性格なので、精神的な疲れというよりは、まさに休養不足、肉体的な疲れが大部分なので、ちょっと休めばすぐに回復するだろう。

「あんまり若くないんやから、無理したらアカンでぇ~」という声が聞こえてきそうだが、年齢に関係なく、”健康なカラダあって初めてキチンとした仕事ができる”わけだし、自分のカラダを過信することなく、時にはやさしく労りながら、毎日を送っていかなくちゃ。

ねっ!!


今日も健在! セコムラー

現在22時37分、中学職員室に男子3名・・・仕事中。

「日が替わるまでには帰ろうね」っていうのが合い言葉になったみたい。決して褒められることではないが、毎日のようにこんな感じ。別に仕事が遅いとか、昼間にサボってるとかいうことは全然ないのに、どうしてこうなるの・・・?

まっ、今日は中学職員会議を17時から20時半までやっていたので、遅くなっても仕方がないところなんだけど、会議がない日でも同じこと。22時より早く帰れることは、まずない。

昨年、高校にいたときも、年度後半から結構遅くまで残るようになり、いつもセコムセットをして帰ることから、ついた呼び名が「セコムラー」。その栄誉ある称号を与えられたメンバーは、年度末まで変わらなかった。

今年度、中学に異動になり、セコムラー3名がこっちに移ってきた。すると、高校職員室の灯りが消える時間が早くなり、中学職員室が遅くなった。当然と言えばそれまでだけど、部署が変わっても相変わらず遅いってことは、そもそも仕事のやり方に問題があるんじゃないの?  そう思われても仕方がない。でも、現実は違う!! 仕事量が多いのだ。

よかれと思って引き受けたがために、自分の仕事を増やしていることもある。教師という仕事の性格上、ここで終わりという線引きが曖昧なこともあって、やろうと思えば際限なく仕事は増えていく。そんな「お人良しさん」が災いしてか、毎日遅くて当たり前。もっぱらそのペースで仕事をするようになった感がある。

お~い、お二人さん、そろそろ仕事終わりにしないかい?

お腹も空いたことだし、24時を回っての晩ご飯はキツイぞ。何よりも明日の仕事、睡眠不足ではアカンやろっ!!


どちらが教育的か?

2ヶ月間のNew Zealand短期海外研修・・・。本校(中高一貫・中学部)で、中2の夏に実施している行事だ。

最初の1ヶ月は全員が共同生活をしながら、現地の語学学校に通う。

食料品の買い出しから、食事の支度、後片付け、掃除、洗濯・・・と、生活のすべてを自分たちで担い、当番を決めてやっていく。一部屋で数人が寝起きし、まさに寝食を共にする生活の中で、「他者理解」=「自分を開く」ことを経験的に学ぶ。

後半の1ヶ月は、一般家庭に一人ずつホームステイし、現地の学校に通う。

それまでの共同生活で身につけた「自分で解決していく力」を発揮し、英語での会話が満足にできない中、コミュニケーションをとろうと悪戦苦闘。独りでいる寂しさを克服しつつ、改めて「家族とは何か」「自分とは何か」を考える。

これまで5年間、一期生から続いてきた経験則でいけば、2ヶ月間の研修で子どもたちがどれだけ自立するかは、周囲がいかに手を出さずに見守り続けられるかにある。現地でトラブルに出会ったとしても、共同生活でいざこざが起こったとしても、引率教員や現地コーディネーターは、あくまでも距離を置き、極力手出しをせず、子どもたち自身の解決を待つ。

それが基本スタンスだ。

しかし、保護者の立場になってみれば、どうもそれだけでは満足できないらしい。なんとか子どもに、この短期研修で自立して欲しいと熱望しているにもかかわらず、
毎年・・・

「子どもは大丈夫かしら?」

「子どもから何の連絡もないんだけど」

「現地の様子は?」

・・・などなど、遙かNew Zealandに行っている子どもの様子を、日本にいるときと同じように知ろうとする。

確かに、ここまで情報化が進んだ世の中だし、携帯電話やインターネットを利用すれば、日本にいるときと同じような感覚で、子どもたちと連絡が取れるだろうし、写真やビデオなど、それこそオンデマンドで現地の生活ぶりが手に取るようにわかる。

でも、それって、海外研修の意味を根底から覆すことじゃないの??

親元から離れ、非日常の環境に身を置くことによって、初めて見えてくる世界・・・。それが自分を見つめるきっかけであり、自立への第一歩であるはずだ。なのに、親の方から必死で日常を取り戻そうとしてどうする。

少しでも情報が入らないと、「現地からの報告はないのか」「様子をこまめに伝えて欲しい」。果ては「困ってるみたいだから、直接話させてほしい」など、要求がどんどんふくらんでいく。

これって、どうよ。

中学の短期研修だけでなく、高校での一年間の留学でも、状況はさして変わらない。とにかく何のために「海外研修」「留学」なのか・・・。《独りぼっち》体験をさせてこそナンボなのに、それを自らが覆してどうするのだろう。

子どもが親を求めるのは仕方がないとしても、親が子どもを求めちゃダメだ。子の親離れより、まず先に親の子離れをしないと。子どもに「独りでもガンバるんやで」と言うのなら、親も孤独に耐えて当たり前だろう。

ということで、今年の短期研修では一切現地の様子を伝えないでおこうと思うのだが、これってアリ? それともダメ?

日本を出発したら、よほどのことがない限り、現地からの連絡はなし。何も連絡がないということ=無事に元気で頑張ってるってこと。それでいいじゃない。で、現地ではしっかり記録を撮っておいて、2ヶ月後、日本に帰ってきたときに、向こうではこうだったんだよ・・・って、その記録を振り返り、成長ぶりを確認しあう。そのほうが、よっぽどいいと思うんだけど。


びわこ学院大学 開学記念式典

まばゆいばかりの太陽が降り注ぐ5月の佳き日、大津プリンスホテルで行われた「びわこ学院大学 開学記念式典」。

その記念講演で、『ともに育つ』と題して貴重な経験談を話して下さった、北海道旭川市・旭山動物園、名誉園長の小菅政夫先生。

自身の経験に基づく、説得力のある、パワフルでココロにグサッとくる話に、思わず納得したり、笑ったり、目が潤んだり・・・

教育的な視点というと、ちょっと言葉が狭すぎるくらい生命観あふれる、ここまで「生きる意味」をストレートに言えるって、スゴイよなぁ~と、感心させられる上に、元気までもらえるような、ほんとうにいい話だった。

帰ってすぐ、記念品のひとつになっていた小菅先生の著書を読み切り、またその奥深さに感動!!

いい出会いをさせてもらえたことを、ほんとうに感謝したいと思う。

また、祝賀会では、びわこ学院大学生が学科を披露したり、7日のブログに書いた「レイカーズ」の演舞があったりと、手作りの中にも、そこに学び・集う仲間たちの、前向きで真剣な姿に、これからの大学のますますの発展の礎を見たような気がした。

よし、頑張るぞ!! そんな気持ちにさせてくれた、開学記念式典。いい時間に出会えた「ご縁」に、ココロから感謝したい。

ありがとう!!


自己表現の場と思えば・・・

中学校の玄関脇に掲げられている「いきいき のびのび こつこつと 黒板」。毎朝、副校長から子どもたちへのmessageが綴られている場所だ。

この木(7日)・金(8日)と、ちょうど副校長が外に出て不在だったので、代わって僕が書くことになった。

初日、慣れていないこともあって、どうも字がぎこちない。書いている言葉も、なんだかつかみどころがあるのかないのか・・・。何度消して、書き直しても、なかなか満足がいかない。

ええいっ、もうこれくらいでいいや!

と、半ば投げやりになって、その日は終わったものの、何度見返してもなんだか気分がスッキリしない。たかが黒板じゃないか・・・。いくらそう思っても、子どもたち全員が見るわけだから、その一言一言、字体や色使いひとつとっても、けっこう気を遣うものなのだ。

で・・・、今日に備えて昨夜、学校を出る前に書いて帰ったのが、これ。

決して満足いく出来映えじゃないが、明らかに昨日とは違って、チョーク運びがなめらかで、書いていて気分がいい。

どうして? たった一日でそんなに変わるわけないのに・・・

昨日と今日で何が違ったか? それは、自分の仕事として捉えられていたかどうかってこと。昨日は「頼まれたから、(ある意味、無責任に)仕方なくやった」。今日は「自分の役目(仕事)として、少なからず責任を感じていた」。たった、それだけのことなのだ。

黒板を読んだ人は、多分そこまでのことはわからなかったとは思う。でも、自分自身のテンションは明らかに違ったし、出来映えも大きく違う。

自己表現の場として、こんなにも意味がある場所だったのか・・・。改めてその意義を教えられたような気がして、うれしかった!


お見事!! Lakers Kids

本校には、県内で唯一のチアリーディング部『Lakers(レイカーズ)』がある。

学校行事はもとより、各方面から依頼を受けて演技を披露したり、イベントなどの舞台を飾ったりと、だんだんとその評判が広まり、知名度もup!  けっこう人気が出てきた。

そんなレイカーズが、この春から「キッズ」を発足させ、活動を始めた。

初舞台は、先日5月2日(土)に行われた課外活動後援会と父母教の総会。

この日に間に合わせて新調したユニフォームで、キビキビとした演技を繰り広げ、保護者を圧倒させた。

どうせ子どもがやるんやから・・・と、甘く見ていた自分が恥ずかしくなるほど、動作や声だし、まとまりなど、漂う雰囲気も含めて完成度が高かった。まさに同部を指導している村井三幸さんの厳しさと優しさが結集した演技だと、思わず目を見張ってしまった。

小学生がここまでやるとは・・・なんてすごいんだ!

ちょっと前までよく観戦に行っていた、アメフトのXリーグ。そこで見た《大人な》チアもいいが、キッズの演技はまた違った意味で魅力がある。

今後、本校ならではの「教育=ココロとカラダづくり」の一面として、大切に育てていきたい。


高校「三送会」、カツカレーに込める「親の思い」

今日は3月1日の卒業式を前に、高校では恒例の生徒会主催「三送会」(三年生を送る会)が行われた。在校生やクラブの後輩、3年生の担任団などが趣向を凝らしたステージ発表を行い、高校生活最後のイベントとして思いでに残る一日をプレゼントした。

そんな中、昨日から調理室に集まり、仕込みをしているお父さんやお母さんたち。父母教総務部が中心となって毎年行っている「昼食」提供だ。体育祭に焼きそばやアイスの屋台を出すのと、この三送会で昼食サービスを行うのが恒例になっていて、昨日今日と、たくさんの保護者が集まって下さった。

昨年までは「炊き込みご飯」と「豚汁」というメニューだったが、今年の役員さんたちの話し合いで「カツカレー」になり、中高生あわせて800名分が用意された。お代わりもOKということで、3人分平らげた生徒もいて大好評だった。

学校行事にこういった形で父母が関わり、子どもたちに少しでも楽しんでもらおうと支援する仕組みは、本当にいいものだと思う。わが子が通っている学校を応援したい、わが子だけでなく生徒全員が自分の子どもと一緒・・・。そういったあたたかい親心がいっぱい詰まった、本校らしい取り組みだ。

私学ではけっこう多いのかもしれないが、学校のいろいろな場面に父母が積極的に関わり、学校を盛り上げていく体制があるのは本校の大きな特徴の一つだ。親子ともども学校行事に参加するスタイルは、教育的な視点から見ても大きな意義がある。

僕自身、このことを例えて、こんな言い方で話している・・・

「少なくとも公立よりも高い授業料をいただいているんだから、子どもさんだけが学ぶんじゃなくて、お父さんやお母さんも本校で学ぶつもりで学校に関わり、いろいろな行事などに参加して下さい。子どもさん1人分だと思えば高いかもしれないけど、お父さんやお母さんの分の授業料も含まれていると思ったら、決して高くはない。むしろ、いろいろなことが経験できて安いくらいかもしれません。本校は子どもさんだけじゃなく、お父さんやお母さんにとっても”学校”なんです。」

今後、さらにこの持ち味を深めていきたい・・・

改革プロジェクトを支える大切な項目の一つだと思っている。


「なんでもあり」は「なんにもなし」と同じ

明日の中学C日程入試に向けて、放課後、会場準備を行った。今年度3回目、最後の入試ということで、受験生には頑張ってほしいところだ。

現実問題として、決して満足のいく数の受験生が集まっているとはいえない中学。滋賀県という土地柄か、このご時世、お金のかかる私立にはちょっと・・・ということなのか、はたまた中高一貫6年といわれると、そこまでは見通しが立たないのか、とにかく「追い風」が吹いているとは言えない。

確かに「面倒見がよく」「手厚い指導」をしている学校であることは間違いない。生徒が「楽しく通い」、「のびのびと生活している」ことも事実だ。公立であれば放っておかれるようなことでも、きちんと対応している良さもある。

でも、それだけで満足のいく評価が得られているかというと、必ずしもそうではない。よく言えば「なんでもあり」が、言い方を変えれば「なんにもなし」と同じことだと、周囲が感じ取っているのがその原因の一つではないかと思う。

満足のいく形で「なんでもあり」を実践するためには、すごく大きなバックボーンというか、体制が必要となる。大企業(大きな私学法人)でなければ、本来できないことだといってもいいだろう。トヨタだからカローラが作れ、それを売ることができたわけで、光岡自動車がカローラのような車を作ったって、それが何の売りにもならないのと同じことだ。

要は「明確なポリシー」に裏付けられた、「はっきりとしたイメージ」が周囲に発信できてこそ、私学の存在価値がある。公立学校がトヨタだとすれば、大きくてホンダ」、小さければ光岡自動車といった学校が私学のイメージだろう。

全員を100%満足させることはできない。いや、やろうと思ったら、何を言われても即対応できるだけのハードソフト両面が整備されていなければならない。理想的にはあり得る話だろうが、現実には難しいことだ。

それならば「私はこれで生きていく」みたいな、間口は狭いけれど、売っている商品には絶対的な自信があるような、スーパーじゃなく専門店としてやっていった方が、よっぽど存在価値がある。

本来、私立学校というのはそういうものではなかったのかと、現実のあまりに公立志向的な見方や運営に、今更ながら疑問を感じる。

本校の先を思うと、ここらでメリハリをつけ、「できること」「めざす方向性」をよりシャープに明示した上で、それに期待して集まってくれる人たちに最大限の満足をしてもらえるような「本校ならではの『売り』」をつくることだろう。

今のままでは、せっかくの『売り』が、その他の雑事に埋没して、かすんでしまっている。