近江商人のエピソードに学ぶ

「ブラックジャックによろしく」のモデルであり、メディアにも数多く取り上げられる心臓外科医・南淵明宏さんの著書、『釣られない魚が大物になる―手術職人の生き方論』。

その中の一節に「近江商人のエピソードに学ぶ」と題した、こんな一文がある。

近江商人と言えば、私の好きな話があります。『てんびんの詩』(梅津明治郎監督、1988年)というビデオになっている話で、伊藤忠商事では新入社員研修のときに見るのだそうですが、こんな話です。

近江商人は天秤棒を担いで全国を行商していたことで有名です。そんな近江商人の息子が小学校を卒業する年齢になりました。近江商人の子どもたちは近江八幡商業学校に行くことになっていて、子ども同士で「おまえ、どこ行くねん」「八商行こうと思うねん」「ぼくも八商や」とか会話するわけです。

その中の一人がある日学校から帰ると、父親から「おまえは明日から鍋蓋を売ってこい」と命じられます。木でできた丸い鍋の蓋です。それを天秤棒に載せて売ってこい、売ることができたら八幡商業へ行かせてやると言うのです。

少年は翌日から鍋蓋を天秤棒で売りにでるのですが、子どものことですから最初は親戚や知人に頼ります。ところがそこでは「あかん。そんなことしたら大将に怒られる。あんた、自分で売りなさい」と叱られてしまう。と言っても、そうそう売れるものではなくて、彼は途方に暮れてしまいます。

そんなとき、ある家で鍋蓋を庭先に干してあるのを見つけます。これを壊してしまえば新しいものを買ってもらえると考えた彼は、その鍋蓋を壊そうとします。ところがそれを見つかって家の人に追い回される羽目になったりします。

どうにもならなくなった彼は、中学進学を半ば諦めながら川べりに停んでいました。するとそこに、古い鍋蓋が捨ててあることに気づきます。手にとってみた彼は「これはまだ使えるんじゃないか」と、その鍋蓋を磨きはじめました。

そこに通りがかったひとりのおばちゃんが、少年になにをしているのか尋ねます。「私は鍋蓋を売って歩いているんですが、全然売れへんのです。ふと見たら、ここにこの鍋蓋が捨ててあって、これを売った人もえらく苦労したんやろなとおもたら、鍋蓋が愛しく思えて」

それを聞いたおばちゃんが、「よし、あんたの鍋蓋、ひとつ買うたるわ」と、そこではじめて鍋蓋が売れました。

家に帰ると、父親が彼の担いでいた天秤棒に名前と日付を書き込みます。それを奥の座敷に持っていくと、同じような天秤棒がずらりと並んでいて、そこには父親自身の名前やその父親、そのまた父親と、代々の当主の名前が書かれていました。「うちはおまえの年になると、みんな天秤棒を担いではじめての商いに行ったんや。よう売ってきたな、八商に行ってええぞ」と、そんな話です。

いい話です。商品を売ることに身体を張って、命を張って、真剣勝負をする。そして、自分が人生を賭けている商品に対する愛情を持つことの重要さがよく表現されている物語でした。

命がけとか真剣勝負と言うと、なにか根性論のように聞こえてしまうかもしれないのですが、あまり売る気もないのになんとなく売れちゃった、ではなくて、必死になんとか売ろうとしたものが売れた嬉しさは、間違いなくあると思います。そして、そのことにこそ価値があって、その価値を享受することができるのでしょう。

まず大切なのは、自分の中に価値を見いだすこと、価値を作り出すことだと思います。この話の少年は最初、鍋蓋なんて、と思っていました。しかし、それを売ることの大変さを知り、常日頃、鍋蓋を売ることを本業としている人達の苦労、そして商品である鍋蓋への愛情、商品が売れること、それらすべての価値を見いだしたわけです。

それにしても、鍋蓋を売った少年の価値とはなんだと思いますか。それは「誠実さ」です。「誠実さ」を売り物にするという手法は、最も手っ取り早く効果的で、お金もかかりません。そして釣り上げられずに一人でもやっていける、本物の力になるのです。

何事に対しても「誠実で」ありたい。自分の仕事に対しては特に・・・

心からそう思う。


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