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2007年09月14日

●「人間力」が勝負を左右する!!

女子バレー日本代表監督の柳本晶一(やなぎもとしょういち)氏。
彼は現役時代、一度も全日本のレギュラーポジションを獲れなかった。
日本バレー史に残る名セッター、猫田勝敏(ねこだかつとし)選手が
いたからだった。

自分の方が7歳も若く、Vリーグで猫田選手のいる専売広島(現JT)に勝ち、
さらにカップ戦も含めて30回ほど日本一を味わっていた柳本監督。
技術面では自分が勝っているはずなのに、一度も世界の舞台で
活躍できなかった。

いったい、なぜ・・・。

日本経済新聞(夕刊)に掲載されていた『駆ける魂』を読むと、
その理由がわかってくる。

猫田との差がわかったのは、ともに引退した後になってからだった。
「私も120点のトスを上げていた。
だが、猫田さんは150点のトスを上げていた」と柳本。

その差を「人間力」と表現する。

猫田はアタッカーがミスをすると、トスが悪くなくても必ず「ごめん」と謝った。
死の間際の病床では、もうろうとした意識で必死に次のトスを伝える
サインを繰り返していたという。
相手の気持ちを読み取る細やかさ。そして、勝負に賭ける執念。
それがアタッカーに「この人のために決めたい」と思わせる。
そんな技量を超えた部分が勝負を左右すると柳本は考えるようになった。

東京オリンピックから4大会連続でオリンピック出場を果たし、
金、銀、銅のメダルを獲得した、世界一のセッターだった、猫田選手。
1964年、20歳で東京オリンピックに出場し銅メダルを獲得。
これ以降、猫田は全日本男子の正セッターとして不動の地位を築いていく。

1968年、メキシコオリンピックで銀メダルを獲得、
翌1969年のワールドカップでベストセッター賞を受賞。
1971年には試合中に全治2ヶ月の骨折をし、オリンピック出場が危ぶまれて
いたが、約8ヶ月のリハビリ生活の末、オリンピック2ヶ月前に試合に復帰。
そして1972年のミュンヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得、
日本バレーを世界の頂点に導いた。
続く、1976年のモントリオールオリンピックにも出場し4位入賞を果たした。
その後、1980年のモスクワオリンピック最終予選を最後に現役を引退、
その年の日本リーグから監督として采配をふるっていたが、
胃がんにかかり、1983年9月4日、39歳の若さでこの世を去った。

給料の大半を外国のバレー専門書購入に費やし、
まさにバレーだけに一生を費やした人生だった。

柳本監督は、自身の著書『人生、負け勝ち』(幻冬舎)で書いている。
「私はミーティングで、猫田さんの話をさせてもらった。
『人は死んでも魂で動くんや』と。『病院に猫田さんを見舞いに行ったとき、
もうお亡くなりになる直前だったけど、試合中のサインを出されていた』。
『もう幻覚症状が出ていたんだ。話をしても、まったくわからないのに・・・。
僕は涙が出た。サインを出していたんだ、ベッドで』。
『それぐらい、オリンピックって、素晴らしいところなんだ。
それぐらいの意識、気持ちを持っていなかったら、
オリンピックでは戦えんのや』。
『オリンピックには、テレビが行かせてくれるんやない、
人気が行かせてくれるんやない。レシーブでも、最後の指先の一本で
ガツッと持ってくるやつが勝つんだ。蹴ってでも、ボールを上げたろか、
というやつが勝つんや』、と・・・」

“負け勝ち”、柳本監督が大事にしている言葉だ。

世界バレーでのまさかの敗戦から、アテネオリンピック出場へと導いた原点には、
「いかに負けから学び、明日への勝ちにつなげるか」という信念があった。

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コメント

はじめてコメントします。

負けからいかに学ぶか

人間力の差

すばらし考えだと思います。
私もその考えを大切にしたいと思います。

これからもよろしくお願いします。

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