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2006年06月02日

●命をいとおしむ

少しばかり心が不安定になった時、なんだか元気がなくなってきた時・・・。
そんな時、読んでは心を落ち着けている一文がある。


自分の命がこの地上に生み出される確率はいったいどれくらいか、
考えてみたことがあるだろうか。

偶然出会った二人の男女を両親に自分が生まれたことを、
私たちはあたりまえのことと思いがちだが、
二人の男女の問にこの《私》が生まれる確率はきわめて低いのである。

このように二、三世代さかのぼってみるだけでも、
自分の命が地上に生み出される確率はほとんどゼロに近く、
生まれたことの方がむしろ不思議に思えるほどなのである。
さらに起源をたどると、ゼロの行進が気の遠くなるほど続き、
可能性は無の中に溶け込んでしまう。

だが、ひとたび命が結ばれると、無の深淵から、突如として生が浮かび上がる。
無から有へのこの奇跡の出現が命なのである。
私たちにとってその生が唯一の生なのである。
どんな両親の下に、どんな時代に、どんな場所に生まれてきたかったと、
どれほど強く願ってみたところで、それを選択することはできない。
それが、この世に生を受けることの意味である。

私たち人間は遠い昔から、いろいろなところで、一日一日と生きてきた。
実にたくさんの人間が生きてきた。
一人一人が別個の身体を持ち、みな違った生き方をしてきた。
この私も、また例外ではない。

私は、両親や祖父母に似ているけれども、彼らと同じではない。
彼らには彼らの生があったのだ。

ひとりの人間が生きていく道には多くの山があり、また、たくさんの谷がある。
昨日と今日とは似ているが、同じではない。
そして、明日はいつも新しい。

生きてゆく一日一日の手ざわりを一つ一つ確かめるとき、
個々の生は陰影の鮮やかな相貌を見せるのである。

与えられた命をただ一度きりのものとしていとおしみ、
自分自身の生として引き受ける姿勢から、人間だけが持つ主体性が生まれてくる。


いかがだろう。

誰に聞いても”命”はかけがえのない、大切なものだと言う。
でも、単に病気や怪我などをせず、毎日が不自由なく過ごせるというだけで、
自分の命を大切にしていると言えるだろうか。

もちろん、健康で毎日が過ごせるということだって、よく考えれば大変なことに違いない。
あたりまえだと感じ、いま自分がそうであるが故に忘れてしまっているだけで、
周囲を見渡せば、どうか元通りの元気な身体を・・・と願い続けている人たちがたくさんいる。
また、自分が毎日、不自由なく過ごしていける蔭には、
どれほど多くの人の支えがあるかということもわかるだろう。

そんな中に存在する”自分の命”、”与えられた命”・・・。
限りなくゼロに近い確率の果てに誕生した、この私・・・。

大切にしなければならないのは当然だと思う。

《かけがえのない私》だからこそ、
その”命=生”に、「主体性」をもってぶつかっていきたい。

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コメント

この世に生まれる時、自ら両親を選び生まれるそうです。
「親に文句なんか言えないよ」って、こう言われたら「仕方ないか~」と思ってしまえるのは不思議です。。。

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